涼宮ハルヒの憂鬱

涼宮ハルヒの憂鬱 (角川スニーカー文庫)
涼宮ハルヒの憂鬱 (角川スニーカー文庫)谷川 流

角川書店 2003-06
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今更話について言及出来る所があるとも思えない程語り尽くされたであろう「涼宮ハルヒの憂鬱」。せっかく一個前の雑感で言及しているので、自分なりの感想をまとめてみた。もうどこかで出ている意見のような気もする・・・。
実は読んだ時に「どーもぱっとしない」という感じがしたのだけど、どうも私は谷川流の得意としている(あるいは取り付かれている?)読者を巻き込むような「メタ的(使い方あってる?)」な作品が好きではないらしい。それは「絶望系 閉じられた世界 (電撃文庫 1078)」の時にも感じた事なんだけれど、作中人物が本の外の世界に言及するような俯瞰視点が気に入らないのだと思う。谷川流の作品が持つ自己言及性の矛盾を常に感じて、落ち着かないらしい。脳みそがグルグル回るような気がする。

とりあえずの登場人物紹介

涼宮ハルヒ
  • 作品中における「困った全能の女神」。
  • キョンが好き。
  • 何でも出来るのに実は何も出来ないという問題を抱えた憂鬱な神様。

個人的には絶対につきあいたくないタイプの女の子。本当は結構いい子なのだけれど、キョンの普通さと対比をするためか、かなり無茶苦茶をする娘として書かれていて、実際に存在したらかなり周りを不愉快にさせる事になってしまうタイプの娘ではないでしょうか。
本人は子供らしい夢を見続けていたいだけなのだけど、現実にぶちあたってもがいている困った娘。とにかく「現実」という彼女にとって空しく強固な退屈をどうにかすべく、日々破壊工作を行う人。
実は「全能の神」のような力が無かったとしても、何も無いところから新しい物とか価値を生み出せる行動力のあるクリエイティブな人なのだと思う。しかし今のままだと夢へのアプローチの仕方が悪すぎて、ただのはた迷惑な人になっているので、取りあえず「猫の地球儀」を読んで夢について考え直しなさいとか思う。
しかし彼女が困った事態を起こさない事にはこの話は一向に始まらないという「役回り的に人に迷惑をかける宿命を背負わされた」ある意味不憫な人。20歳過ぎた辺りには普通のとても良い女になっていそうなタイプのような気もする。ところでキョンを好きになった決定的なきっかけってなんじゃろうか?

長門有希
  • 作品中における「情報の女神」&綾波担当。
  • 十中八九キョンが好き。
  • ハルヒを監視する任を負った情報の女神。

大人気な長門ですが、確かにこういう感情表現に乏しい(そもそも感情があまりない)タイプがまれに気持ちを見せたりすると”グッ”と来るものがありますね。しかもとても有能だし。秘書とかやらせたら世界最強でしょう。無駄口叩かないし、指摘は的確だし。ただあんまり無口なのも、どうなんでしょう。まあそれが持ち味でしょうか。
とにかくこの作品のいわゆる「萌えキャラ」とは間違いなく長門をさすのでしょうね。また、自己が希薄なように感じるため、仲良くなると何から何まで自分色に染められるという初回特典付き。そういう意味では男性慣れした女性に対して苦手意識がありがちなオタク(あるいはそれ以外の処女崇拝のケがある男性諸君)に絶大な人気があるのも頷ける。

朝比奈みくる

実際にいたらぜひお近づきになりたいタイプ。ヒロイン達の中で一番現実感覚に優れているからでしょうか?
みくると言えばそのわかりやすいエロマスコット的な所が良くクローズアップされますが、実は対人コミュニケーション能力のバランス感覚に優れている所が一番の魅力じゃないかと思います。しかし無駄にエロい。・・・よくよく考えてみると仲良くなっても会話の端々に「禁則事項です」が入って話が通じなくなったりする危険性が。

古泉一樹
  • 作品中における「超能力戦士」&やおい系の妄想起爆剤
  • キョンに対してのシニカルな協力者。
  • ハルヒを監視して危険が発生するのを防ぐべく暗躍する諜報員。

いまいちつかみきれない。「日本人は愛想笑いばかりで何を考えているのか分からなくて不気味」という外国人の意見がありますが、古泉をみていると「ああ、こんな風に自分たちって見えているんだろうか?」とか思ったりします。
何か考えているようで何も考えていない男のような気もしますが、こいつがいなかったら(あるいは女だったら)この本はかなりギャルゲーっぽくなってしまうので、「涼宮ハルヒの憂鬱」という本に対しての世の偏見からの緩衝材としても機能していそう。

キョン
  • 作品中における主役でありながら傍観者。語り部。案内人。メタ的には真の神。
  • 誰を一番気にしているのかは分からない。読者の解釈次第で変わる可能性がある七変化っぷり。
  • 読者に用意された「ハルヒのインターフェース」。

キョンが気に入るかどうかがこの作品を読めるかどうかの分かれ目だと思いますが、一般的には気に入られているようですね。これが谷川流の腕の確かさの証明でしょうか。私も嫌いじゃありません。
ただ、もう少しニヒリスティックなフリをするのを止めてほしいとかは個人的に思いますね。しかしそれがなくなったらラノベの主立った読者層に受け入れられないのかも知れません。いずれにしても彼抜きではこの話は語れない。

キョンというインターフェース

涼宮ハルヒの憂鬱」においては巧妙にこの仕組みが取り入れられていて、読者はキョンとして作品世界に入る事になる。主人公の「キョン」が本名ではなくあだ名のままなのはドラクエにおける勇者の名前が自由に変えられるみたいなものだろうし、そういった意味では別に「トンヌラ」だって構わなかった訳だ。これはあきらかに「読者」の位置を作品世界の一部とする事を計算に入れた(あるいは谷川流の芸風としての)意図的な主人公の無個性。キョンの個人語りで話が進み、キョンは読者に語りかけるようにして話が進む。この辺りの計算は谷川作品の根っこにずっとあるのでは無いかと思う(イージスは読んでないけど)。ちょっと引用してみる。

でも人生ってそんなもんだろ?

これはもちろん「読者」にたいしてキョンが同意を求める所だ。これはそのまま「ラノベのような生活が出来ればいい」と心のどこかで思いつつも諦めていて、とりあえず刺激を求めてラノベ手に取っているまさしくこの本の読者に対しての問いかけそのままだ。同意出来る人はキョンに自分を投影しつつ物語の先へ、同意出来ない人は本を閉じて別の本を物色し始めるのだろう。

キョンは登場人物というよりは「もう一人の読者」「傍観者」「案内人」

キョン」自体には冒険心とか、物語を自分で動かそうという本来のジュブナイル作品の主人公としての資質みたいなものが無い。というかキョン自体が「涼宮ハルヒの憂鬱」という作品世界内において「ハルヒ+長門+みくる+古泉」という「ラノベ人間達」を読む読者のポジションなのだから。
(現実世界の読者がそうであるように)キョン自身は冒険しないし、積極的に選択しないし、自ら物語を動かさない。それをやるのは「涼宮ハルヒ」というラノベの主役であるハルヒと、登場人物かつ分かりやすい記号の長門やみくるや古泉となる。彼らはそれぞれ、綾波レイ型+コンピュータ、一般的なエロ/ギャルゲーの代表+未来人、BL系にモチーフを求めたタイプ+超能力者と、それぞれラノベ的に分かりやすい記号的な役割を担っており、ラノベの登場人物として物語を動かせるだけの記号としての資格を持っている。
しかしキョンは「主役」の記号は持っているのだが、この「主役」とは、「涼宮ハルヒの憂鬱」という作品内で「涼宮ハルヒとそれを取り巻くキャラクター達が登場する」ラノベの「読者」としての役割を持った「普通人」という役の「主役」であるために、物語を動かす資格も力も持っていない。つまりキョンは常にハルヒ達を主役とした物語の「もう一人の読者」「傍観者」「案内人」としての位置をキープし続ける。
キョンが一応主役のような「選択」をするのはハルヒが閉鎖空間を作り出した後で、この最後の最後でキョンが行う「選択」だけは一応自分で選ぶ事によって「もう一人の読者」「傍観者」「案内人」の立場を捨てたように見える。
しかしキョンが最後ハルヒにキスをする事ですら「ラノベの主人公的な勇気の発露ではなく」「自分で考えた訳でもなく」「責任感のようなものがあったからという訳でもなく」、そうするようにシナリオ的に導かれているから、キスができるのだと思われる。選択肢は選ばされているだけで、彼が作って選び出したわけではない。彼が物語のインターフェースかつ「もう一人の読者」「傍観者」「案内人」と言う記号として準備される限り、彼の下す決断は常に選択肢として用意された「何か」を選んでいるだけ、という感覚を払拭できない。
これはゲーム「涼宮ハルヒの憂鬱」に「画面上のハルヒにキスをしろ!」と要求されたのでモニター画面に映った「涼宮ハルヒ」にプレイヤー(読者)がキスをする、ようなものだと思う。しかもこれは日常への回帰するための儀式でもある訳で。ゲームのエンドマークを表示するためのプレイヤーが行う作業としてのキスなのではないか。そういう意味では「涼宮ハルヒの憂鬱」はインタラクティブな文庫本のようでもある。
ハルヒは読者にとって「涼宮ハルヒの憂鬱」というラノベのヒロインでありながら、キョンにとっても「涼宮ハルヒ」というラノベのヒロインとしても機能しているのだと思う。

物語の主役としての資格を持つ事を許されないキョン

ただ「涼宮ハルヒの憂鬱」という本、「涼宮ハルヒの憂鬱」の世界において面白いのは、このキョンが「ひたすら事なかれ主義(傍観者=読者)を貫く状況」「物語の主役になる必要がない状況」という本来ラノベでは歓迎されないような状況を「涼宮ハルヒ」という人物を作品上の「特異点」としてしまう事で、奨励される(歓迎される)状況にしてしまった事だと思う。これは結構画期的な事であると思った。うまい。
この設定があるおかげてキョンである読者(読者)はメタ的に入り込む事になる作品世界において、勇者のような勇気がなくても、新世界を生み出す新しい発想がなくても、他者を引きつけるような徳がなくても、安穏と神の視点をもった状態で「事なかれ主義の現実の自分を引きずったまま」作品世界に没入できる。キョンに当事者ではない余裕を感じるのは当たり前だ。彼もどこまで行っても読者と同じ傍観者だから、閉鎖空間に取り込まれても怖くもなければもちろん嬉しくもない。だから堂々と物語にオチを付けるためのキスも出来る。
実はこれは読者によっては非常に心地よい体験かも知れない。キョンというインターフェースを使ってハルヒ長門、みくる、古泉といったある意味典型的とも言えるラノベキャラクターと遊べるのがこの作品の楽しさの根っこなのではないかと思う。そのためにはキョンは珍しい特徴を持つような少年であってはならない。作品内で彼が英語圏における典型的な偽名である「ジョン・スミス」を名乗るのもそのためだろう。彼は特定の誰かであってはならない。
この作品においてキョンラノベの主役としての資質などそもそも必要ないどころか、書いてはいけないのだと思う。現実と「涼宮ハルヒの憂鬱」作品世界の境界を曖昧にするためには、そんな個性を表す記述は邪魔なだけだ。キョンはいつまでも曖昧で中庸な存在としてあり続ける必要があるので、主役としての行動力や決定力や知性といったものを持ってはいけない。現実世界でラノベを読んでいる読者(私)はラノベの主役としての資質は大抵の場合において、持ち合わせていないのだから。こうしたキャラクターを作るという手順を踏んで、現実の夢や希望に適応し損なった人間達のかりそめの「ハルヒ」という壊れる事の無い楽園が出来上がった。実に巧妙だと思う。

ただし、こうした作品を作り上げる事が簡単かというとそうとは思えない。キョンは読者にとってのインターフェースであるために「万人がそう思う/そう行動する」と思われる選択肢を自動的に選ぶ「良く出来た」インターフェースでなければならないからだ。この辺りの谷川流の作家としての慣れやら技量は高い水準にあると思う。メタ的な構成を取る作品の場合は、作品に入り込むための優れた(つまり特徴の無い)インターフェースは必須なのでしょう。

涼宮ハルヒ」というキョン(読者)にとってのおもちゃ

作者の谷川流はこの1巻で、読者が安全な所から「涼宮ハルヒの世界」という面白いおもちゃをキョンというインターフェースを用いて、つついて遊べる装置を作品世界の中に作り出した。そんな気がする。
キョンはいつまで読者のインターフェースとなり続けるのだろうか。いつか彼が名を名乗り、作品が彼ではない第三者の視点で語られる日が来るだろうか?
いや、その日は恐らくこないだろう。キョンは今後も常に読者の視点を気にした行動をとり続け、作品内の登場人物ではなくいつまでも読者の一部で居続けることになるのだろう。キョンが自分の名を名乗る日は来ないだろう(作品のラストなら別)。それは「涼宮ハルヒの憂鬱」という作品世界へ読者がアクセスするための唯一の道だからだ。キョンという記号の影に隠れて読者を翻弄する谷川流は「キョン」という絶好の隠れ蓑の表に自分が出てくること良しとしないに違いない。谷川流がこの作品においてキョンという記号を使わずに自分の主張を展開することはないだろう。直接姿を現すことは、きっとない。
そして涼宮ハルヒは自分を捕らえている「キョン」というインターフェースの存在に気がつき、逃げ出す事が出来るのだろうか。しかしその日も恐らくこない。WindowsゲームがWindowsOSから逃れて単体で動こうとするようなものだ。それは作品自体の魅力や成立を否定する。このハルヒを取り巻く強烈な閉塞感。こら確かにハルヒは憂鬱にもなるわな。

総評

なんだかそれこそ憂鬱な文章になってしまった・・・。こんな事考えさせる所が個人的には気に入らないのかも。読者を取り込もうという物語の構造に気がついてしまった限り、私はこの作品の部品としての読者になりきれないのかも知れないし。
私は物語の一部として機能するつもりもなければ、キョンというインターフェースとある種の合一感を得られる程若くも無い。どこまで言っても物語は物語で、現実は現実。その境界を曖昧にしようとするその「作者の企み」が楽しく思えないのだ。
その作者の企みのために、必然的にキョンは単体で取り出すとあまりに普通で、ラノベの主役としては猛烈に魅力のないキャラクターになる。なんといっても読者自身の代弁者なのだから。
・・・実は、こうしたキョンの「普通で面白みのない」キャラクターとしての表現のされ方に、読者に対しての谷川流の冷笑的な視点を私は感じてしまうのだけど、それはさすがに被害妄想かもしれない。
私はラノベに単純に楽しませてくれる事しか期待していない人で、作品の持つ構造とかそういったものにはなるべく言及したくないし、考えたくない人です。しかしこの「涼宮ハルヒの憂鬱」は、魅力について語ろうとすれば、どうしてもその作品構造に触れざるを得ない(いや、キャラ萌え中心に語ってもいいか)。だから疲れるんだな、きっと。
しかし話が基本的に面白いのは確か。星3.5位。でもまあ星4つでもいいかな。
(追記)リライトにリライトを重ねた結果、長くて分かりにくい挙げ句、上手く書けていないという感想(論文!?)が完成しつつある、しかし・・・破綻してそうだこの文章・・・それに「涼宮ハルヒの憂鬱」を狂信的に好きな人が2chとかにいるため、読んだ当初はともかく、今では私がどうも反抗的になっているところもあるかも・・・これは結構悲しい。
ちなみにアニメは見ていないです。特に見る気もないですかね。ラノベとアニメは表現方法が全く違う別作品だから、アニメは「こりゃ星5つ、いや6つにしちゃうよ!」とかなる可能性もありますけど、それは別の論に譲ると言う事で。
(さらに追記)同じ様なテーマを書いている人を見つけた。嬉しい。
concretism 涼宮ハルヒの考察/誰が”神”であるのか