少し、昔話をしてみようと思う

きっかけは大学に入った事だった。

恐らく大抵の奴がそうだと思うが、大学に入ってやりたい事なんて何一つ思いつかなかった。
学部こそそれなりに自分の好きそうな学部を選んだつもりだったけど、その選択に将来のビジョンなんてモノは欠片もなく、ただ「校舎が通いやすいか」「学費が安いか」などで、もちろん一番集中して考えた部分が「自分の学力で合格出来るか」だったのは言うまでもない。
そんな理由で始まった大学生としての生活は当然のように浮遊するクラゲのようにふわふわとした感じになり、一体どこに向かっているのかさっぱり分からなかった。自由の世界に放り出された鯛焼きは、実社会に出る前の大学生活で、早くも溺れかけていた。

ある時、友人が言った

「とにかく、モテてみろや」
結構唐突な話だったので、僕には正直彼がどんな事をしろと言っているのか始めは分からなかったのだけど、友人に半ば騙されるようにして連れて行かれた原宿でそれを叩き込まれる事になった。
いわゆるオタクであった僕は、若者社会の中で「自分が一体どんな生き物なのか」という事を嫌という程客観視させられた。立ち並ぶ店の中に入る度に寄せられる好奇の視線やら、不潔なものを見るような、何かが間違って迷い込んで来たのかと言わんばかりの店員の顔。僕が自分の姿を羞恥心とともに頭にしみ込ませるまで、数時間とかからなかった。
僕はこの日の恥をそそぐべく「モテるための五カ年計画」をぶち立てたのだ。復讐戦と言って良かった。

捨ててみた/買ってみた

とにかくオタクっぽいものを止めようと思った。
好きだった漫画や小説、アニメなどにお金をかける事を一切やめ、ファッション誌を買い、「服を買いに出かけるための服」を買い、髪を切るのに美容室に通う様になり、流行のグッズとか話題などにいちいち気を使う様にした。もっていたオタクコレクションは処分する事に決めた。
結果、一年を過ぎる頃には僕は少なくともいわゆる「オタク」らしさを外見/実生活の両方の部分において捨て去る事に成功していた。失ったものも大きかったけれども、また得たものも多かった。それは、女友達だった。

とにかく驚かされた

僕にとって女性は自分の頭の中に存在していて、実際の女性はショーウィンドウの向こう側のマネキンの様にリアリティがない存在だったのだけど、その頃彼女達はそのガラスを突き破って実態をもった存在として僕の目の前に現れていた。いや、ガラスを破ったのは僕だったのかも知れないけれど、そんな事は実際どうでもいい事だろう。
とにかく彼女達は僕のもっていた女性に対する幻想を片っ端から打ち砕いてくれた。それは奇麗なものから汚いものまで多岐にわたっていて、時として空いた口が塞がらないような事すらあった。良くも悪くも、この現実もファンタジーだな、僕はそう思った。
そして、彼女に会った。

堕ちるとはこういう事だと思った

まさしく墜落した。もうそれ以外の言葉は思いつかないし、未だにそう思っている。
彼女は最初に現れたその瞬間から一人だけ光を放っているかのようだった。別に他の女性と比べて何かが特別違うという事ではなかったし、人一倍色っぽいとか、スタイルがいいとか、そんな事は特にはなかった。
ただ、彼女が笑っている所を見ると、それだけで幸せな気持ちになれる自分がいる事を発見する事になったし、それを自分の行動やら話やらが生み出した時には、羽が生えて天に昇るような気持ちにもなった。
簡単な事だろう。僕は彼女に恋をしていた。

恋は上手くいかない

大学生のその爛れた生活の実態を示すかの様に、一人暮らしをしていた彼女の所に僕たちの仲間は良く集まったし、馬鹿みたいな事をよくみんなでやった。冬には鍋やら、夏には花火やら、公園でいちゃつくカップルを興味津々に覗いてみたりとか、映画に言って見た作品にダメだしをしたりとか……、まあとにかくそういったどうでもいい事をしていた。そのうちに僕と彼女の距離は多少縮まる事となり、色々な打ち明け話をされる様な関係にもなった。
――その中には、僕が多分「知りたかったけど、知りたくなかった事実」も含まれていた。
彼女は、別の男に激しい恋心を抱いていたのだった。それを彼女は大切な宝石の様にそっと見せてくれた。そしてその時僕は気がついた。出会った時の彼女が輝いて見えたのは、間違いなく彼女の中にある恋心のせいだったのだ、という事に。
始まる前から、終わっていた恋だったのだろう。

僕は

結局の所、友達のままでいる事を選択した。
時として弱気になったり、変に強気になったり、あるいは自暴自棄になって酒に走ったりする彼女をどついて、叩いて、真っすぐに好きな人の方へ矯正するべく励まし続けた。
彼女がその彼をどう思っているのが、今はどうなのか、どうなりたいのか、微に入り細に入り聞き出して、男として助言を沢山した。悲しいかな、第三者だからこそ分かる事も沢山会って、僕には十分彼女の恋は勝算のあるものに思えていた。
一進一退する恋の行方を聞くたび、僕の心には大量の抜けない針が刺さり、最悪な痛みとともに眠れない夜を過ごし、時には悲鳴すらあげて眠りから覚めた。
でも、それで構わないと思った。僕を根性無しと笑う者はいると思う。でも僕はそう言える奴を鼻で笑い飛ばす事が出来る。
――ああ、君は本当に人を好きになる事とか、愛する事がどういうものなのか、知らないんだね、と。
彼女が幸せならそれで良かった。自分が隣にいてそれを実現出来れば最高だったのだろうけど、僕にその資格も能力もない事はとても良く分かっていた。
僕はそう言った意味では、十分に親しい彼女の友達で、彼女の事をとても良く分かっていた。片思いに揺れる同じ様な心を抱えもった身として、彼女のほんの少しの言葉で、彼女の心の奥底まで理解出来る様な気がする時すらあった。ただ一つ僕にとって不幸な事があったとすれば、二人が決して同じ方向を向いていなかったという事だけだった。
心は悲鳴をあげ続けていたけど、僕はどう考えても彼女の物語において、主演俳優ではなかった。それは何よりも確かな事だった。悲しかったけれど、彼女が笑えるのならば、それでいいと、本当にそれで構わないのだと。
人々の笑顔を作り出すピエロを目指す男の心の様に、真っ白に祈る事が出来た。

あれから

もう10年近くが経つ。
彼女とは今でも友達だし、あの頃のような燃える様な恋心はもうなくなっていて、心の奥の方に燃え残った炭火のような淡い光がある。時々メールのやり取りもするし、年賀はがきのやり取りもあるし、まれには大学の仲間で集まったりもして顔を合わせる事がある。
この間、彼女が二人目の子供を産んだと聞いた。そんな話を聞くたびにあの頃の事を思いだす。他の選択肢、可能性、上手い立ち回りがあったのかも……。そんな事を思う事がない訳でもない。
ふと、顔を上げて窓の向こうの町並みを眺めてみる。
街行く若者達はあの頃の僕と同じ様に、きっと苦しんだり、悩んだり、笑ったり、泣いたり、それこそ恋をしていたりするのだろう。今日も街を歩けば、大声で恋を歌っている若者達がたくさんいる。でも、その都度僕はこう思う。
別に、囁くように歌う、恋があったっていい。大きな声で歌う事だけが恋じゃあない。


ただ一人、誰にも聞こえないような小さな声で、囁く様に歌う恋があったっていいだろうと。