沙耶の唄
沙耶の唄 | |
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例えば
このゲームで描かれる臓物がぶちまけられたような世界に放り出されたとき、人はどうするのだろう?
例えば——
臓物をぶちまけたような景色がグロテスク。
ノイズ混じりの人の話し声が不気味。
——本当にそう? みんな同じように感じると思う?
最初に
一つ問いかける事にします。
あなたが美しいと信じている景色、心地よいと感じる音、美味しいと信じている味、かぐわしいと感じる匂い・・・それはこの世界の上の全ての人にとって心地いいものなのだと信じる事が出来ますか?
もっと簡単に言えば「あなたは自分の正気を証明したことがありますか?」でしょうか。
あなたの感性は、何をもって自らを正常と言いますか?
実はあなたは・・・狂ってはいませんか?
さらに
逆の切り口でこう言い換えてさらに問いかけてみます。
あなたが今まで気がつかなかっただけで世界は元々グロテスクであった可能性はありませんか?
美しい音楽は元々ただの耳障りなノイズだという可能性はありませんか? と。
このゲームを
始めた直後に僕は手塚治虫のある作品を思い出しました。
そうです、このゲームの中で例え話として出されるあの作品です。そしてその意味する所が心に染み渡った時には、背景画像の不気味さや音声の不快さなどは消え去り——ただの普通のシーンになりました。
ここまで言えばなんとなく分かって頂けると思います。いわゆる「正常」だとか「普通」だとか「常識」というのは普遍の真理でもなんでもなく、人間社会の中で育まれたただの多数派工作に他ならないのだという事を。あるいは個人の幻想に過ぎないという事を。
全ての人間は等しく狂っていて、誰一人として自分の正気を証明したものは無く、またいわゆる正気というものは実体のないあやふやなものに過ぎないという事を。
そして、そんなあやふやなままの「正気」が世界を覆っていて、我々はそこで「自分は正常だ」と自分に言い聞かせているに過ぎない・・・という事を。
この物語は
そうした多数の狂人達の平均値である「あやふやな正気」が認識している「世界」と大きく違う「世界」を「認識」して生きることを余儀なくされた主人公・匂坂郁紀(さきさかふみのり)と、その認識のズレた彼とって”唯一の正常なもの”として映る美しい少女の沙耶(さや)が織りなす、美しい恋物語。
群れから逸脱してしまった主人公は一人、人間にとっての狂気の荒野を歩いて行くことになるのですが・・・そこで彼は必然のように沙耶と出会います。
全てのものが醜悪に歪んで見える中で自分と同じ感覚を共有出来る唯一の生物で、そして異性。これで恋に落ちなければもはやそれは生物とは言えないのではないでしょうか。
・・・この話は「群れから逸脱してしまったいきもの」と「群れから逸脱していたいきもの」が出会って、ひたすら愛して、そして死ぬ・・・そういう物語です。
作りについて言えば
いわゆる「普通の人間」としての生活を送る事が不可能になった状態になって初めて登場する選択肢に作りの巧みさ/狡さを感じます。
- 後に戻れば「人の枠の中に戻されながらも、しかし同時に人としての尊厳を奪われた緩慢な死」が。
- 前に進めば「人からの逸脱以外のなにものでもないが、別の生物としての希望のある生」が。
いずれかが容赦なく与えられる事になります。そして生き残る事を選択したプレイヤーに最早後戻りは許されません。人の敵にまわるか、滅ぼされるか・・・。
ここまで一切選択肢を出さない作り手の姿勢にいっそ憎しみすら覚えたと言っても良いでしょう。
生き残る事を選んだとしても
それは狂人になるという事とはイコールではないのだろうと思います。
最初の選択肢の前の彼は確かに「狂人」と言っても良かったかも知れません。しかし沙耶と共に生きることを選択した後の彼は単にいわゆる「人間」を止めて、「人間ではない別の生き物」へと変貌したに過ぎないのではないかと思いました。
この変貌は発狂ではなくただ認識を反転させたに過ぎません。自分が世界にとっての異物なのではなく、世界が自分にとって異物なのだと認識しなおしただけなのです。
いわゆる「罪」とか「罰」とか「善」とか「悪」とか「良心」とか「共感」といった概念は・・・この時、この選択の瞬間をもってこの作品を評価する上で捨て去りましょう。人間の作った法や人間の信じる正しさは人間しか裁く事が出来ないのですから。そして物語をその方向に進める事を選んだプレイヤーもまた、郁紀と沙耶の共犯です。
この地上にたった2匹の異種族の個体が、人に追われながらも必死に愛し合って必死に生き残ろうとする物語を、最後まで追いかける覚悟をしましょう。プレイヤーにはその義務があるといってもいいかもしれません。
郁紀も沙耶も
通常の人間の感覚からすれば間違いなく狂っています。
しかし主人公である匂坂郁紀と沙耶の間にある愛は、彼らにとってどこまでも曇り無く純粋なのです。それは普通の人間にとっては決して理解出来ない愛。あるいは郁紀と沙耶以外の全ての人間を否定する愛。
彼ら二人にとってにしか意味を持たないものかも知れませんが、それでもそこには間違いなく真実の愛がそこにはあって、そしてその愛だけはどこまでも美しく描かれるのです・・・。
総合
星4つ。
非常に考えさせられる作品ですね。
例えば・・・部屋に閉じこもり、ネットから世界を睥睨する引きこもりのような——限りなく「個」に近づいた——生物にとっての「正しさ」とは一体なんなのでしょうか? どこにあるのでしょうか? 共感する事の価値はどこにあるのでしょう? 正直良く分からなくなりました。
ただ、上記のような感想を書くとまるで「『一般的な社会性』を身につけることの愚かさ」を賛美しているように読めるかも知れませんが、そうではありません。この作品も、そして作品に触発されて書かれたこの感想もあくまで一つの表現の形式、あるいは思考のためのトリガーであって、「社会性を持った人」を否定するものではありません。
この作品「沙耶の唄」自体に3つの全く異なったエンディングが用意されている事からもその辺りは理解してもらえるでしょう。そしてこの3つのエンディングにはいわゆるトゥルーエンドのようなものは存在しないと私は考えます。答えはプレイヤーそれぞれが見つけ出すものでしょう。しかしどのエンディングにしても・・・必然に満ちながらも、とても、とてもとても悲しく、空しく、そして美しいものです。
また、この「沙耶の唄」には色々な意味で悪趣味と取れる演出や表現はありますが、テーマがテーマだけに仕方がない事でしょう。これは人の中に紛れ込んだ異種族の物語なのですから。例えば昆虫の目から、例えば両生類の目から人間がどんな風に見えるか想像することが出来れば、この作品の「普通の人間にとっての悪趣味な演出」の必要性も受け入れられると思います。
おまけ
- アーティスト: 稲葉浩志
- 出版社/メーカー: バーミリオンレコード
- 発売日: 2004/07/14
- メディア: CD
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OH La La La
うらがえしの世界をごらんなさい
勇気があるなら
影は光に 醜さは美しさに
パッと変わるWonderland
・・・なにか奥の方で共通するものがあると思いませんか?
*1:もちろん拒絶反応が無ければですが・・・。