SWAN SONG

SWAN SONG 廉価版
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Le.Chocolat 2008-07-31
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star頼まれなくたって生きてやる!
starまあ、良作かな・・・
star美しいです

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スッゴイ疲れた・・・プレイするのも疲れたし、この感想を書くのもとても疲れたんだけど、この作品の感想は書いて残しておかなければならないだろう。実は以下の文章は15年ほど昔の猛烈頭でっかちの自分に読ませたい文章だったりするのだけど、当時の自分が読んでも腹を立てるだけだろうなあ・・・
しかも過去最高の長文で、なんだかある意味今さらどうでもいいようなことが沢山書かれているので、まあ気分が良ければお付き合い頂ければいいという内容だということは予めお断りしておきます。

という訳で

ここからさきの文章は「SWAN SONGで感動した!」という人からするとあまり心地よい文章になっているとは言い難いので、読まれる場合には注意して下さいね。多分「何で名作って言う人がいるのかさっぱりワカラン」という人が読むとちょうどいいんじゃないかと思う。

読む人によってはここより下は『微妙にムカつく文章』になっている可能性が高くなっております。

 信者の人は要注意。この感想はちょっとアンチです。 

長いので最初に珍しく「総合」を持ってきました。それより下はまあ興味のある人だけ読んでみてね〜。

総合

星3つかな。一言で言えばこの作品は「良くできた失敗作」という事になると思う。
思考実験の切っ掛けとしてはなかなかだけど、それ以上にも以下にもならないという所ですね。正直な感想として、普遍的な愛や祈りや気高さを歌うにはこの白鳥は若すぎるという印象。
エロを含め、エンターテインメントとしては根っこに流れるテーマが大き過ぎて手に余っている感じがするし、真面目に人間の普遍的な本質を描いたものとして受け止めるにはライトノベル的ご都合主義が多すぎて困るというところ。
ただし、キャラクター一人一人は十分に良く描かれているので、ちょっと世代的に外れているような僕でも結構共感出来るところがあっちこっちにある。だけど作品全体で見た場合には「え、ここで終りなの? 見たいのはこの先なんだけど?」と言いたくなってしまう。僕にとっての見たいところが一切無いために僕個人の感想としてはどうしても「ただ醜悪で悲惨な話」の域を出ない。

駄目な映画を盛り上げるために
簡単に命が捨てられていく
違う 僕らが見ていたいのは
希望に満ちた光だ
Mr.Children 「HERO」)

ついこんな歌が頭を流れちゃうな。
しかしこの物語は少なくとも長文の感想を書きたくなる位には良くできている。でも申し訳ないのだが、多分だけど僕はもうこの物語の幕が下りた後の人生を生きているということなんじゃないかと思う。だからオチがオチに感じられず、尻切れとんぼの印象がつきまとってしまった。
という訳で僕からはこの作品はお薦め出来ない感が強いかな。現在品薄で中古品の価格が高騰しているという話だけど、コレクターでもない限りそこまでして手に入れる価値はないと思う。
でもこの作品をプレイする事で逆説的に自分が大人になっている事を確認出来たような気がする。そういう意味ではとても有意義な時間だった・・・かなあ? 今はちょっと食指が動かないけど、このシナリオライターの5〜10年後の作品とかが興味あるかな・・・どんな風に成長してくれるか楽しみ・・・とか思ったら何やら業界から引退するみたい・・・それはそれでもったいないけど、この人の独特のねちっこい文体は結構好きな部類なので、どこかでまた活躍して欲しいものです。ライトノベルでエンターテインメントに徹した作品を書いたりしてくれません?
ちなみにこの作品の全てのエロシーンはズリネタとして使えそうなのは・・・うーん1、2カ所じゃないかな。田能村ー雲雀のシーンくらい? ですので実用性は皆無です。
全然違う作品だけど言いたい事は同じだから、どうせなら漫画の「うしおととら」とか読んだ方がよさそうだと個人的には思う。

ここから先は無駄に長いので

読みたい人だけ読むのを推奨します。

世の中には

悩んでも無駄な事、というのは間違いなくある。
例えば、食事を食べないとお腹が空くのは何故かとか。
例えば、眠らないと眠くなるのは何故かとか。
例えば、色っぽい女の人を見た時に欲情しちゃうのは何故なのかとか。
この話はそういう「今さら悩んでも意味のないこと」を掘り返して物語にしているタイプの話ですね。
つまり「人間は人間である前にただの生き物で、獣である」という原則。極限状況に陥った時に人間がむき出しにしていくひたすらに利己的で、ひたすらに残酷で、ひたすらに冷徹な「野生の掟」とでも言えるもの。そしてそれを取り上げた結果この物語には一貫して以下のような空気が支配している。

  • 積極的/消極的な排斥
  • 無関心
  • 諦念
  • 不信
  • 他者の価値観の軽視

などなど。
獣は自らが生き残るために自分にとっての利益、または不利益以外を目に留めない。そこにはひたすらな合理主義がある。それが露骨に物語を支配している。徹底した合理主義には余裕がない。つまり獣は心に余裕が無い。「奇生獣」だったかな? ミギーが確か、

「心に余裕(ヒマ)のある生物、なんと素晴らしい!」

と言ってた・・・ような気がする。そんなこんなで、

「ああ、エロゲやる余裕がある人生って最高に幸せだよね〜!」

とか思ったとか思わなかったとか。それと作品をやっていてつくづく、

「自分はもう大人だなあ・・・」

と感じた作品でもありますね。つまり僕はもう心情的にも現実的にも「守り」「包み込み」「育み」「慈しむ」という・・・そう感じ、行動する側にいるということ。

呆れるか笑うか鬱になるかのゲーム

例えば「CROSS†CHANNEL」はある意味「個人視点の英雄譚」かつ「大人が前提として存在しない世界」だから、ある特定個人の物語として読む事が出来たし、楽しめた。どこかの誰かの物語を読むという作りで・・・良くも悪くもライトノベル的な話だったかな。
でも「SWAN SONG」は一応人間すべてを巻き込んだ群像劇という形を取って、人間全体の本質に迫る努力*1をしているっぽいので「どこかの誰かの物語」として受け取りにくい作りになっている。そしてそれはこの物語の一つの魅力でもある。

特定の視点の欠落

そうした作りの結果、僕という読者も物語の中のどこかに巻き込まれざるを得ないのだけど・・・自分がいるはずの「特定の視点」が決定的に欠落しているために、読めば読むだけ

「え〜? 人間ってそんなもんでもないよ〜?」

という気持ちがつきまとってしまう。
ただし各キャラクターに対して自分の過去の姿を見る事が出来るから、全く共感出来ないという事はないのだけど、やっぱりリアリティのあるものとして受け入れるには「特定の視点」が無いため僕にはしっくりはまらない。
・・・どんな視点が欠けているかって?
それは「大人」の視点
そもそもカタストロフ後の世の中を描いたと言いつつも、作品の舞台に殆ど大人が登場しない事に違和感を感じちゃう。恐らくこの作品の中で一番僕の立場に近いキャラクターがいるとしたら「飛騨」なんだよね。間違いなく。その次に「柿崎」かなあ?

「大人」の露骨とも言える排除

人間世界を全て巻き込んだ話として作られている割には「経験を積んだ男性の強さ」と「ギリギリでの女性の強さ」が殆ど語られない。
特に経産婦のどっしりとした母性というものが完全に欠落しているところが猛烈に違和感となって襲いかかる。つまり「与えようとするもの」の意図的な排除が目に余る。
なんだろう? 例えば・・・「最近の若いもんは・・・」と大人に言われて「なんだよ、そんな何もかも一緒くたにするなよ」と思ったりしたことがあると思うけど、大人も同じように「最近の大人は・・・」なんて感じに扱われると同じように思ったりするんだよね。
最初の方で出てくる笑うサラリーマンのエピソードと、警察官のエピソードがあるけど、この辺りで「なんか変なの〜?」という印象が出てくる。

そして「大人」への絶望感

さらには、後の方で出てくるあの狂ったような母親のエピソードと、娘を祭り上げる母親のエピソード*2、息子を虫けらのように扱うエピソード。
ここまで来るとプレイしていて

シナリオライターの人、大人全般や、父親、母親に対して特別な憎しみでも持っているのかな?」

と感じた。
とにかくひたすら大人達は破綻しているか、無力なものとして描かれる。良く言えば若者的で繊細な視点、悪く言えば中二病、かな。
つまりこの物語において大人は、

  • 登場したとしても早々に退散する弱い存在
  • 顔も出ない空気のような存在
  • 事態を悪化させる「無自覚な悪意」に満ちた存在

のいずれかとして描かれる。
主要登場人物の家族が回想シーン含めてまともに描かれないのも特徴的。破綻している司の父親の画像があるのに、恐らく柚香を愛していたと思える彼女の両親が絵になっていないところにもそれは現れる。
これは手前味噌だけどライトノベルだとありがちな傾向なんだな・・・同じ事がエロゲにも言えるのかも。
こういう構成は「大人を含めた人間全般」をテーマとするには正直かなり極端な作りなんだよね・・・残念ながら、視点が幼い。どうせなら最初から大学生しか出て来ない話にしちゃえば良かったのに、と思う。

あろえの姉に見る閉塞

実は最初の方からそうした違和感はあったのだな。

あろえを、殺してください。やっぱり、無理なんです。私以外の、他の誰にもその子の面倒なんか見られない。親だって逃げ出したのに、施設なんか……。世間の人は同情はしてくれても、優しくなんかしてくれないんですよ。何もあてになりません。いままで二人きりだって、苦労して来たんです。それが、一人ぼっちになって、生きていけるわけないじゃないですか。他人はみんな残酷です。その子を、殺してください。お願いです、尼子さん、殺してください。そこ子をいますぐ殺してください。……あろえをこんな恐ろしいところに残してはいけない。つらい目に遭うのなら殺してあげてください」

なんて上っ面をなでているだけの、中二病的な文章なんだろうと思った。確かに本当の事だけど、でも嘘。これはそういう文章。
あろえを殺してください」と言ってしまう自分こそが、この瞬間あろえにとって一番残酷で優しくない事に彼女は気がついていない。世間を残酷なものにしているのが何よりも自分だという事を知らない。
彼女は「世の中は醜い!」って喚くちょっと小賢しい知恵を付けた子供のようだ。諦めの中で目の前のものはおろか、自分以外の全てを否定してしまう姿がダダを捏ねる子供の姿じゃなくてなんだと言おう? やはりここにも母性や父性の決定的な欠落が見て取れる。

じゃあ子供向けの作品?

という方向で考えてみると・・・やっぱり違う。そもそも18禁なのでお子様禁止な作りだしね。
まず徹底的な否定ありきの作品で、ひたすら悲観的。この突き詰め方に幼さ故の一方的な絶望を感じるなあ。無駄に残酷なんだよね。もちろんそれが人間全ての本質だというなら仕方がないのだけど、そう言い切れないのは意図的に大人を排除している事からも明らかだろう。
じゃあ若者だけに限った話として受け止めたらどうだろうか? それもちょっとどうかなあと僕は思う。
この作品は確かに一見上手く若者達を過酷な状況に追い込んで、人間の本質をむき出しにさせたように見える作品なのだけど——果たしてそうかな? 僕は違うなあと感じてしまう。・・・世界には実のところ、

  • 憎悪と等量の愛情
  • 絶望と等量の希望
  • 不幸と等量の幸福
  • 不信と等量の信用
  • 略奪と等量の施し

があるはずなのだけど、愛も、希望も、幸せも、信用も、施しもこの物語上では「ノイズ」になるために描かれない。途中のシーンで部分的に存在するが、それは決して勝利しない。少なくともファーストエンドは一種の絶望の物語だ。
しかし「愛情」「希望」「幸福」「信用」「施し」のいずれにしても、年齢を問わずどこかにある類いのものだ。それを排除している辺りでもう真面目に人間を見据えたヒューマンドラマとは受け入れがたくなってしまった。

希望を描こうとして失敗している作品

それでもプレイしてみれば、このシナリオライターが人の繋がりを求め続けることの大切さを書きたかったというのだけは分かる。
それは話の根っこの部分に「理解しあえない、手を取り合えない人間に対する深い憎しみと絶望」と、それと同じだけの量の「愛情と希望」を感じる事が出来たからなのだけれど。
だからこそ作り手は「どうしようもないもの」「あらがいようのない残酷な神とも呼べる何か」と戦い続ける司やあろえの姿に祈りを託して、救済をそこに求めたのだと思う。
でもねえ・・・残念ながら作品全体で見た場合にはプレイヤーに対して憎しみと絶望を振りまいてしまう作品に仕上がっているのじゃないかと思う。つまり、人間の持つ悲劇性だけに目を向け過ぎなんだよね。
この話は「人というものに対する絶望」と「相互理解の困難さ」を丁寧に丁寧に描いて、そして最後にそれを知りつつも希望を求めて戦い続ける姿を尊いものとして描く・・・という作品構成なのだけど、結果として呪いを繰り返し描く事になってしまって単に醜悪になってしまっているように思う。戦闘シーンの残酷さをリアルに描きすぎてマニアが興奮する出来になってしまった反戦映画みたいに
例えばファーストエンドにおける途中の○○の強姦シーンは明らかにやりすぎと思えるシーンの一つだったなあ。その後の彼女を気高く見せるために必要な演出と言えなくもないのだけど、正直それも描写が足らずに中途半端に終っている。悪趣味だね。無駄に長いし。画像付き。シーン再生にもちゃんと出てくる。あとファーストエンド近くの3回の選択肢で正解だと「ピンポーン」となるのも半端に下品だね。正直失笑した。
これらシーンを見た後では、どんなに人間讃歌を歌っても陵辱シーンの一つもいれてそっち趣味のプレイヤーにオナニーさせてナンボのエロゲか、と失望を覚えたりしたな。

美しく見せるために汚す?

この話の明らかな失敗は「当たり前のことを美しく見せるために積み重ねた悲劇が結果として祈りを押しつぶしている」というところ。
確かに、絶望的な状況でもその戦いを放棄しない司の姿や、どんな状況でも変わらないあろえの姿には一種の美しさがあるとは思う。
けれども、その戦いそのものは実はなんの変哲も無い、誰もが「ままならないもの」に「抗って生きるために」ために日々人々が繰り返していること。それは取り立てて素晴らしくも美しいものでもないのだ。
象徴的に取り上げられるあの石像は、あろえにとっては日常の一コマに過ぎない。強いて言えば「こりゃ凄いな〜。あろえちゃんはこういう才能があるんだね!」で済む話なのだ。しかし、それを美しく厳かに見せるために、制作側は舞台を醜く汚し尽くす必要があったのだろう
その姿勢は・・・個人的にはあまり好ましく見えない。社会の中で暮らす人間ならばいつもやっているであろう「あたりまえの事」を「あたりまえの事」にしないためか、山のような他の醜さを積み上げる方法を取ったところに・・・僕は制作側の幼さを感じるんだな。
じゃあ絶望を描いた作品としてはどうか? というとこれもやはり片手落ちなんだよね。ファーストエンドのラストシーンはどう見ても絶望を歌おうとしたシーンではないし、セカンドエンドは存在そのものがご都合主義で絶望を語るには弱くなっている。つまり・・・、
大人がやるには子供っぽくて、子供がやるには大人っぽすぎる。
人間を知るには片手落ちだけど、フィクションとしては良くできてる。
残酷さを知るのには便利かもしれないけど、優しさを知るのには全く向かない。
こう並べると・・・なんとも困ったポジションの作品だな。
映画で言えば、115分まで人間同士の虐殺を生々しく描いて、ラスト5分で当たり前の日常を描いたという感じ。さて、印象に残るのはどちらだろう? 確かにそうした作りの場合ラストシーンの日常は美しく見えるかもしれない。でもそれは醜いものとの対比がなければ成り立たないものだろうか? 僕はそうは思わない。

セカンドエンドの失望

失望を覚えたという意味では、セカンドエンドの制作側の手の抜きようは目に余る。
ファーストエンドと比べた場合、姿の見えないモブキャラとの正面からの軋轢も適当に飛ばされ、唐突にご都合主義的にまとまっていってしまう。
司と柚香の衝突もなければ、そこから生まれるすれ違いもはっきりと描かれないし、田能村の戦いも詳細には描かれないし、なにしろあろえがほとんど姿をあらわさない。
あれ程ファーストエンドで醜くとも繋いでいく事の美しさを歌いながら、実は制作側がそれを信じきれずにいる。だから「人の心を繋いだ結果としてのセカンドエンド」は取って付けたような印象が強く出過ぎている。あるいはあまりのファーストエンドの救いのなさにユーザーの反発を心配して付け足したのかも知れない・・・と言えばおおよそ間違いはないように思う。
セカンドエンドのラストシーンでは白鳥が空を飛ぶ事が示されるが、僕の印象に残るのはひまわりの咲き乱れた大地だ。
それは端的に、白鳥の最後の一啼きは美しいのかもしれないが、そんなものよりも愚直に真っ直ぐに太陽だけを求めて育っていくひまわりの泥臭さこそが生命讃歌を歌うのに相応しいという事ではなかろうか。つまりファーストエンドで美しく演出して作り出されたあの継ぎはぎだらけのキリスト像は、いくら物語で飾り立てても、ひまわり一本が大地から泥にまみれて太陽を目指して伸びゆく生き方の前に容易く敗北するのだ
しかし、そうした事はセカンドエンドでは多く語られずにやっつけ仕事の匂いを漂わせたままプレイヤー側に放り出される。
それは制作側が白鳥の歌声——死に瀕したその一声——を美しく思えても、しぶとく大地に齧りついて生きるひまわりの美しさ——つまり生き続けていく事——を信じきれていない事を表してはいるように思う。はっきり言えば、制作側が単に物語から逃げ出して一枚の絵で誤摩化してしまったという印象を持った。
人の絶望とその後に残る希望を描くつもりだったのならば、死に瀕した白鳥の歌声の美しさを演出に凝って讃えるより、ひまわりの泥臭さとしぶとさこそを丁寧に丁寧に讃えるべきだったと、僕は思う

そうはいいつつも

でもこの物語にもの凄く心惹かれる人がいるのも分かる気がするところがなんとも困ったもんだと思う。
自分が大学生くらいの時に見た映画「セブン」でやはりもの凄く感銘を受けた記憶がある。今になって思えば

「なんて露悪的で一方的な話なんだろう? この先が大事なんだろ?」

って思うけど、当時の自分の受けた衝撃は結構なものだったから、多分この作品をこのゲームに出てくるキャラクターと同世代の人がプレイしたら結構なインパクトがあるかも知れない。
確かに無関心や無理解や憎悪や悪意は伝染する。しかも速やかに伝染する。その結果としてこの話の中で描かれる「破滅」は現実に起こりうるかもしれない。人間はどうしようもなくて最悪な生き物かもしれない。
でも実はそれと同じように愛情も確かに伝染するものなんだな・・・というのを年齢とともに肌で感じ取った今、この物語からは衝撃的な感銘は受けようがない・・・というところだろう。
この作品ではとにかく愛情を意図的に排除してしまって悲観的に仕上げている。・・・そういうところに制作側の心理状態を想像してちょっと個人的には苦笑してしまう感じ・・・かなあ?

「あんたらは火を使う。そりゃわしらもチョビットは使うがな。」
「多すぎる火は、何も生みはせん。火は一日で森を灰にする。水と風は百年かかって森を作るんじゃ」
「わしらは、水と風の方がいい」
「あの森を観たら、姫様悲しむじゃろうなあ・・・」

風の谷のナウシカの印象的なジジイ共の台詞。これは憎しみ(炎)と愛(水と風)の違いを端的に表していると思う。この作品を終えた時の僕の感想もこれに近い。燃えてしまった森を見て悲しむ老人達のように、破滅していく人々の物語を眺めて無駄に悲しかった。

ちょっと考えてみよう

人間は殆ど文明の無かった数万年前から今に至るまで命をつなげて来たし、その中には山のような悲劇もあった(というか現在進行形で世界中にある)けど、でもまだ人間は生きてる。
それは手を取り合って生きるという希望の勝利をここまでの人間の歴史が証明している事に他ならない。いつかは滅びるかもしれないけど、それでも過去を振り返った時見つける事が出来るのは、多くの絶望と、それを上回る希望。
人の暮らしには数えきれないほどの悲劇がある。でもそれを上回る喜びがあったからこそ、今こうして僕もゲームなんかやってられる訳だな・・・いつだって希望が絶望を上回って来ている。そしてその希望を生み出すのは「繋がろうとする力」に他ならない。
だから「人間の歴史は血塗られている。それを歴史が証明しているじゃないか?」という人がいたら僕は同じように言い返そう。「人間の歴史は無辜の民が生き抜こうと手を取り合って抵抗した記録だ。それを歴史が証明しているじゃないか? だって僕たちはまだ生きてるんだ」と。
生きているこのゲームのプレイヤーこそが「繋がる力」の一つの結実した姿なのだ。父と母なくして子供は生まれて来ないのだから。

そして

一つだけ確かな事は、もしこのゲームから白鳥の歌声が聞こえたとするなら、そしてひまわりが美しく見えてしまったなら、現実のあなたはもう中途半端に悪意で彩っただけのフィクションに沈んでいる場合ではなくて、手を繋ぎに他の人のいるところを目指して出かけるべきだろうなあという事かな・・・。

作り話はいらない
ただすばやく叩け
すみやかに動け
佐野元春:トゥモロウ)

白鳥の歌を机上の空論にしたくなければ・・・、ひまわりの咲き乱れる大地が美しく見えたのなら・・・、「SWAN SONG」をただのフィクションではなく普遍的に美しいものにしたければ・・・、
ゲーム終了後のプレイヤーに残された「次の選択肢」は一つしかない。本物の人との触れ合いの中で、自らの繋ぐ力を示す事だろう。
つまりプレイヤーそのものが人々の間でいつか「白鳥の歌」を歌う戦いを始めるしかないのじゃないだろうか。そして可能なら、死ぬ前に美しく歌う事を目指すのではなく、ひまわりのように泥にまみれてしぶとく生きるべき時が来たという事じゃないだろうか。いくら「SWAN SONG」——辞世の句が美しくても、死んでしまっちゃあ意味が無い。つまるところそういう事ですね。
白鳥と共に冬が通り過ぎた後にこそ——咲き誇るのがひまわりなのだから。
そしてその生きる姿はみっともなくてもいい。いや、ファーストエンドの石像の下りでは、

「みっともなくてもそれが誇らしい、太陽に向けて掲げるべきもの」

とこのゲームは説いている。
恥じる事無く、人と手を繋ぐべく、歌声を響かせ、自らをひまわりのようにして大地に縋り付いて太陽を追い求め、新たな人の心の繋がりの種を蒔くべく生きるべきだという事なのだろう。それは誰にでも出来る事なのだから。出来ないものの末路はこのゲームの中で既に描かれているのだから、改めてその必要性をここで説く事もないだろうしね。

あと、以下についてはネタバレが多いので続きを読むにしておく。

手を差し伸べる事

上でも書いているけれども、ファーストエンドにおいて彼らが崩壊していく理由は「共に歩こうと、自ら手を差し伸べなかった事」が理由となる。
それは鍬形の崩壊に強く現れている。彼は自傷的であるのと同時にやはり強烈な独善と関係性の軽視に満ちたキャラクターとして描かれる。
例えば教会に集まった全員で話をしているシーン。

「ごめんなさい。そうですよね。田能村さんはわかってて、その上で明るく振る舞っているだけなんですよね。田能村さんが強くて、ボクが弱いだけなんですよね……」
「あっ、そういう意味じゃないんです。あの、私も……」
佐々木さんの言葉を遮って、
「大丈夫です。もう、余計なこと言いませんから。ごめんなさい」

あるいは鍬形と雲雀が話すシーン。

「え! えーと、いやいや、その、別に柚香さんなんて! ボクなんかどうせオタクですし。それに、あの、あの……えーと、ほら?」

・・・実はこれらの発言は「他の人から実際に自分がどう見えるのか」を軽視しているからこそ発することが出来る言葉だという事にお気づきだろうか? これは「勝手に自分を定義して」「勝手に完結し」「勝手に納得して」「勝手に閉じこもる」という・・・柚香や雲雀といった他者の「視点」「価値観」「存在」といったものの軽視をしていないと出来ない類いの発言なのだ
鍬形の上記の発言は卑屈に閉じこもっているから分かりにくいが、そこには単なる「自分の世界に閉じこもった上でのご意見無用」という傲慢があるのだ。

「自分はこうだから仕方がない」に潜む傲慢

「自分はこうだから仕方がない」

と最初から割り切ってしまう姿の果ては、「自信過剰」「傲慢」←→「自己卑下」「卑屈」の両極端しか無く、バランスの取れた中間視点が存在しない事へ繋がるのだとこの物語では描いている。セカンドエンドの彼の反転はそれを意味するだろう。
良くも悪くも一人の視点しか持てない人間は「人間は社会性を持った生き物である」とした場合、大きな逸脱の可能性を秘めているものだとしているのだ。それはつまり「自分はこうだから仕方ない」といいながら、平気で人を殺す可能性であり、「自分はこうだから仕方ない」といいながら、平気で女性を強姦する可能性である
自分を他人より高く見積もるのも、低く見積もるのも、見下すのも、見上げるのも、「自分と他の人間を対等に見ない」という意味では同じ心の動きだという事である。つまり鍬形はそうは見えないだけで最初から最後まで徹頭徹尾「傲慢」な存在なのだ
そして鍬形は最終的に、他者の存在をひたすら軽視した結果として自己の中の幻想に埋没し、自分の姿がもう分からなくなってしまう。だから自分がかつて憎んだはずの虐殺者と同じ姿になる事に気がつかずに、鍬形はその道を突き進んでしまうのだ。
「自分はこうだから仕方ない」として対話を拒否するという姿勢と言葉の裏側には、いつだって秘められた他者の軽視と蔑視があるのだ。鍬形の存在はプレイヤーにそれを教えてくれる。

山路を登りながら、こう考えた。
智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。
夏目漱石草枕

つまり「とかくに人の世は住みにくい」のだが、しかし同時に人の世に暮らすためにはどれも欠かしてはならないのだ。
しかし鍬形はひたすら「智」→「合理主義」→「ファシズム」と思われる道を突き進み*3、ひたすらに自らを正当化しながら崩壊する。
彼の取った道は「間違い」とは言い切れないのだが、それでも外から見た場合に明らかに破綻している。それは人としてのバランス感覚を「他者の視点」を無視するのと同時になくしてしまったからだ。結果偏って偏って・・・ただの頭でっかちになったという事でもある。かくして鍬形はひたすら傾き続けて自重に押しつぶされる結果となる。
しかし同時に鍬形を大衆が支持した理由もここにある。カリスマでいるためには傲慢さや、純粋さ、一見正しいと思える強固な合理性が必要になるからだ。これは必ずしも否定されなければならない資質ではないのだが、やはり一言で言うと「未成熟」という事になる。
逆に言えば今現在人に持ち上げられている人は常に自省し、他者を顧みない限り、鍬形と同じところにはまり込む可能性が口を開けているという事でもある。

破滅の回避のために必要なものとはなにか

鍬形に代表される人間性の破滅は回避出来たか?
出来たのだ。少なくとも可能性はあった。実は本人が既にやっていた事だったりする。
それを端的に表すシーンとして、鍬形が語る過去のエピソードの中に「転んだ柚香に鍬形が手を差し伸べるシーン」がある。
しかし彼はその時、自分が成した事が人との関係において一番大事なことだったという事に気がついただろうか? 彼が柚香に手を伸ばした時、柚香はどうしたのだったか? 彼の手を取ったのだ。
彼の内面はどうあれ、手は取られたのだ。これは差し伸べなければ決して分からない事実なのだ。彼と柚香はこの時人間として対等だったのだ。それは鍬形が振り絞った勇気によってもたらされた人生の果実に他ならないのだが・・・彼は過酷な環境の中で勇気を失い、そこから逃げ出してしまった。

これらの

「手を差し伸べる事の大事さ」は作品内で度々語られる。
田能村が雲雀に手を伸ばす場面を思い出せるだろうか? 彼は無駄だと思いながらも自分から手をさしだした。心理的な意味でも物理的な意味でもそうだ。自ら手を差し伸べた結果はどうだっただろうか?
雲雀は——柚香が鍬形に対してしたのと同じように——田能村の手を取るのだ。それは田能村が繰り返し続けた「手を差し伸べる行為」の一つの結実した姿である。彼は自分の中にある恐怖から逃げず、どうしようもない現実と戦い、繋がろうと手を伸ばしたのだ。
これが田能村と鍬形の決定的な差だ。田能村は繋がろうとひたすら努力した果ての結果として雲雀と身も心も繋がる事が出来るが、手を差し伸べない鍬形は体を無理矢理繋げる事は出来ても、心が一瞬たりとも繋がらないし、「繋がるかもしれない」という幻想すら持つ事も出来なかった。
鍬形は自分を愛してくれていた希美とでさえも、一瞬たりとも交わらない。希美は鍬形をそのみっともなさ故に愛する——実はそう珍しい事でもない——のだが、人を見ようとしない鍬形は人を知らないためにそれを少しも信じる事が出来ない。それは彼が内なる恐怖から逃げ続け、自己に閉じこもった結果として訪れた当然の事なのだ
あるいは、セカンドエンドに至るための選択で田能村が逃げを選択する事がそのまま破滅へ繋がる事も同じ事を表している。自分の中にある恐怖から逃げ出す事が破滅を呼び込むのだとこの作品では描いている。

しかしその上で

司と柚香は最後まで手を取り合う事は出来ないものとして描かれる。これは個人的に実に好感触だった。
彼らは結局のところ孤独に絶望と戦い続けた人達(そういう意味では柚香も司と同じ人種だったりする)なのだが、それは手を差し伸べなかったからという事では——必ずしも——ない。最初は惹かれあった理由がさっぱり分からなかったのだけど、過去の出来事も含めて、恐らくはお互いの中にある強さの影に潜む孤独と戦いを本能的に感じ取っていたからなのだろう。
そして戦いの果てに、司は柚香を最後まで見捨てない事で、柚香は最後に自分の苦しい胸の内を吐露する事でお互いに手を差し伸べている。
しかし手は空を切ってしまった。
手を伸ばしたにも関わらず柚香は司の手を振り払い、司は何故振り払われたのかが分からない。柚香は手を伸ばして司を引きずり下ろそうとするが、司はそれを拒絶する。二人はここで完全にすれ違ってしまっている。これは人と人が真の意味で理解しあえるなんてあり得ないという事を表現したかったのだろう。
それでも彼らは拙いながらも必死で手を伸ばしたのだ。自分の傷口を押し広げるようにして必死に。それはみっともないかも知れないが、彼らからすれば立派な第一歩でもある
実際、現実は果てしなく厳しいし、同じ言葉を喋っているのかどうかすら曖昧なのが人間だ。しかしそれは人間関係に絶望する事とイコールではない。CROSS†CHANNELでの台詞だけれども、

「絶望を確認することしか出来なくても?」
「絶望を確認するという希望がある。」

ということなのだ。
これは過酷な環境下では間違いなく奇麗事なのだが、他者に手を差し伸べるための「心の余裕(ヒマ)」を完全に失った時、人間はただの獣になる。絶望を確認するという希望のためには・・・人が人であるためには・・・手を差し伸べ続けなければならない。過酷な戦いなのだけれど、それが絶対に必要な事なのだ。
しかし絶望だけではない。ありがたい事にこの地球上には今や60億を超える人が暮らしている。最初の出会いのチャンスだけでも60億、繰り返しをいれたら無限とも言える可能性が目の前にある事に気がつけるだろう。

誰もがすれ違う

閉じこもらず、手を繋ぐべく行動するという事の大事さをこのゲームでは語っているし、さらにここで改めて自分で書いてみたものの・・・僕は厳密な意味でこのゲームにおけるキャラクター達は「どの組み合わせもお互いに理解しあったとは言えない」と感じている。
上手く行っていた田能村と雲雀のカップルでさえ、全く同じ事を考えていた訳ではない。ファーストルートにおける田能村は雲雀が学校に乗り込んでいく事など間違っても望んでいなかっただろうし、雲雀は田能村がそれを望んでいたとも思っていなかっただろう。つまり、人間同士が理解しあうというのは机上の空論なのだ。
しかしそれでも人間は、当たり前のようにそれを求めて生きているし、そしてそれは衝突を繰り返し続けてやっと見えるか見えないか・・・いや見えないかな・・・でもいつか見えるかな・・・というものなのだ。
現実の人と相対し、理解し、理解してもらおうと行動しつづけた人であればあるほど、他人を無視する事の馬鹿らしさと、他人を知ろうとする事の空しさを皮膚感覚で知っている。でもそれでも求めて止まないのが人間なのだ。止めた時は獣になるのだろう。
人を求める戦いは苛烈だ。しかし人であるためには絶対に必要な事なのだ。この物語を苛烈と感じ、打ちのめされてしまった人は、自分がまだまだ「この現実で人に手を差し伸べる戦いから逃げている」と言う事をを肝に銘じるべきだと思う

デマだぜ たちのわるい 最近はやってるのは
そんなの信じてるの?
また本屋とテレビで確かめてるの

お前、俺も知らねえけどお前だってきっと何にも知らねえんだぜー!
(両方とも、B'z 「お出かけしましょ」)

最近なら「本屋とWebで確かめてるの」って事になりそうだけど、まあそういう事になっちゃうんだろうね。昔、非モテ、オタク、非コミュ的な生き方しか知らなかった僕の耳にはもの凄くイヤなものとして聞こえたこの曲だけど、時間が経ってみると味わい深いから不思議なもんだね、人生は。

おまけ

以下奥さんの感想を載せようと思ったんだけど、正直なところ制作側に対しての嘲笑の嵐なので省略した。星にしたら1個つかないだろうなあ・・・。聞きたい人がいたらコメント欄で要望でも下さい・・・。聞いた俺はまあ、昔の自分を思い出して苦笑いかな・・・。
という訳でこのゲームをプレイした大人の女性の感想とかを聞きたいものだけど、多分ネット上にもそんなもの見当たらないんだろうねぇ・・・。

*1:つまり普遍化?

*2:マシな方なのだけど、娘を教祖に仕立て上げているのだからよっぽどのシロモノだ。

*3:鍬形が熱狂にかられて演説するシーンなどはヒトラーを彷彿とさせるだろう。