驛舎

なんで

いまさら、というか今、さだまさしの曲について書きたくなったのか自分でもよく分からない。思った以上に疲れているのかも知れない。思った以上に悩んでいるのかも知れない。思った以上に悲しいのかも知れない。分からない。
何故なら、僕にとってさだまさしの楽曲に触れると言うことは、ある種自分の人生に触れること、あるいは振り返ることに他ならないからなのだけれども。

偶然の

縁があって、僕は小学生のころからさだまさしの音楽に触れる機会があった。
訳も分からず聞いているうちに、知らず美しい歌声に惹かれ、気がつけばそらで曲を歌うようになり、そしていつしか歌詞に深く没頭するようになった。おそらく中学生の頃には彼の持つ詩の独特な世界にすっかり嵌り込んでいたと言っていいだろう。
彼の歌には、物語があった。想像力の翼さえあれば、どこまでも飛翔する事が出来る世界が一曲一曲にこめられていた。とにかく、一曲聴いて欲しい。僕の大好きな曲である「驛舎」(えき)である。
驛舎youtubeへのリンクです)
歌詩も一緒に載せておきたい。どうしても知って欲しいのである。著作権的には多分NGなのだろうけれども、恐らく大丈夫だと思う。なにしろ全曲の詩を載せているサイトが存在するくらいだから。見逃されている感じだろうけれども。

君の手荷物は   小さな包みがふたつ
少し猫背に   列車のタラップを降りて来る


驚いた顔で   僕をみつめてる君は
夕べ一晩   泣き続けていた   そんな目をしてる


故郷訛りのアナウンスが今
ホームを包み込んで


都会でのことは誰も知らないよ
話す事もいらない


驛舎に降り立てばそれですべてを
忘れられたらいいね




重すぎるはずの   君の手荷物をとれば
身じろぎもせず   ただ涙をこぼすだけ


ざわめきの中で   ふたりだけ息を止めてる
口を開けば 苦しみが全て   嘘に戻るようで


季節の間ではぐれた小鳥が
時計をかすめて飛ぶ


泣きはらした目が帰ってきたことが
君をもう許してる


驛舎を出る迄に懐しい言葉を
思い出せたらいいね


改札口を抜けたならもう
故郷は春だから

もう何百回聞いたのか自分でもよく分からない。聞く度にこの物語のシーンが脳裏に新しく描かれる事だけが確かな事だったりする。
ちなみに、僕が以下に書く——単純な自己満足以外の何者でもない——陳腐極まりない歌詩についての解説など、どんどんと読み飛ばして頂いて結構である。何故なら、詩の解説くらい愚かな事はないだろうと僕自身が思っているからだ。

故郷を

半ば裏切るようにして出て行った先の都会で夢破れ、打ちひしがれて返ってきたのであろう女性。
そして故郷へ繋がっている列車の扉が開いたとき彼女を待っていたのは——思いかけずも、いや期待すらしてはいけないであろう、おそらくは——彼女が「都会の夢」を叶えるために裏切って捨てたはずの男性。
その二人の間には沈黙と——涙しかない。それは悲しみの涙でも、喜びの涙でもない。
そんな静謐が支配する時間を故郷の空気が通り過ぎていく。
そして彼は思う。
都会で何があったのかなど何も話す必要などないよと。知る人などここにはいないのだからと。
昔の君を今以上に悔いる必要はもう無いよと。その涙こそが君を全て許しているのだからと。
だから、この驛舎に降り立ったなら、傷ついたであろう出来事の全てを忘れられたらいいね。
だから、この驛舎を出るまでに、この故郷の懐かしい言葉を君が思い出せたらいいね。
ほら、改札口の向こうには、君と僕が待ちわびていたであろう春がやってきているのだから——。

僕は

この物語の「彼」のように、どこまでも優しい男になりたいと思った。
かつてそんな夢をもっていて——そして恐らくは今でもその夢を捨てきれていないのじゃないかと思う。どこまでも優しくなりたいと思う。そんな強い男になりたいと思う。でもきっとそれは叶わない夢に終わりそうだけれども、そう思う度にこの歌を聴き直す。
もうじき、春がやってくる——。
今は確かに冬の厳しさに包まれているけれども、必ず春はやって来る。僕は都会の冬を耐えながら、花咲く春を祈り続けるように、生きたい。