引用するということについて考えてみた。

最近のことなんだけど

私は引用が嫌いなのかも知れないということに気がついた。

オイオイオイちょっと待て待てちょっと待て。貴様今までの本の感想で山ほど引用ぶっこいてるじゃないかよコノヤロウ!

と思ったそこのあなた、まあ待ってくれ給え。ここでの「引用」は本を紹介するための引用じゃなくて、「持論を補強するするために他人のもの(本でもなんでも)から持ってくる引用」だと思って読んでくれると助かる。

いや

自分でもよく分からなかったんですけどね。最近その輪郭がうっすらと分かりかけてきたような気がしているんですよ。
持論を補強するために他のものから言葉を持ってくるという行為には、私が好きではない2つの副次的な作用がつきまとっているような気がするんです。それが何かというと——。

  1. 書き手の責任の分散
  2. 権威の横取り

この二つですね。

1は、

ん〜、「『痛いニュース』の持ち主に感じるアレ」といえば分かる人、結構いるんじゃないでしょうか。
もの凄く過激なことを言っている人がいる。それを引用する。でも引用する人は自分の言葉では無いから自分には責任が大きく発生しないので痛くない。例えどこかで叩かれたとしても自分の言葉では無いから自分に直接的な痛みは発生しない*1
であるにも関わらず「自分好み」の意見を強調して紹介することで自分の立場や考えを広めることが出来る・・・。これって楽ですよね。実際楽だと思いますよ。私はある種のうらやましさを感じるのと同時に、そういう事をやっている紹介サイトやニュースサイトをやっている人に対して一種の「ずるがしこさ」を感じます。同じ事を全部自分の言葉で書き連ねたら「文責」から大変な事になるでしょうしね。・・・書けるか書けないかは別にしても。
報道メディアに感じるいやらしさ、と言い換えてもいいかも知れません。

2は、

ん〜、これは前に何処かで書いたことがあるんだけど、例え大した事のない意見だったとしても、似たような事を言っているもっともらしい文章を他の偉い人の言葉から持ってくることによって、自分の言葉に権威付けすることが出来るんですよね。
以前「"文学少女"遠子先輩のヒ・ミ・ツ!という至極アタマの悪いタイトルのついたエントリでも書いたことがあるんですが、

聞こえの悪そうな言い方をすれば「ただの女子高校生の主観論」を語る際に、有名文学作品からの引用を大量に加える事によって「普遍的な客観論」「揺るぎ様のない真実」の様に見せかける事に成功している訳です。・・・もっと悪く言うと「虎の威を借る狐」と言ってもいいでしょう。

多分ここの部分で私の言いたいことは全部出ちゃっている気がしますね(これは自分の書いた文章だから引用してもいいや・・・と感じたりするから不思議だ)。
いや、そういうやり方があるというのは否定しないし、上手いやり方だなとも思いますけど、私は自分では極力やりたくないと思ったりします。なんでだろうか? と考えたりもするんですけどね、今のところまだ

「これだ!」

というはっきりとした理由が見えてこない部分があるんですが、これもやっぱり「ずるがしこさ」を感じるからなんだと思います。
知識は力だし、引用する言葉を知っているというだけでもそれはそれで大変な事だったりしますが、引用はやっぱり引用でしかないと思うんですね。それは発言者が体内に取り入れた「血と肉」から出た言葉だとは到底思えなくて、一見立派に見える、でも「机上の空論」のように薄っぺらく感じるんです。
なんというのかなあ・・・他の店のレシピを買って、そのままの料理を客に提供している料理店の店主に感じる「ずるがしこさ」みたいなものかなあ・・・。よくよく食べて見たらメインディッシュは「引用」部分で終わっていることに気がついたときのむなしさったらないですものね。

うーん

結論らしい結論が出ないままこのエントリを締めることになりそうですが、上記のような理由から私は「持論を補強するするために他のもの(本でもなんでも)から持ってくる引用」が好きじゃないみたいです。
私もやっちゃってますけどね、上のような引用の仕方。便利だし楽だから。でもそれってなんだか悔しいんだなあ・・・。
実際の所、完全オリジナルの言葉なんてものはもう世の中には存在しないような気がするし、ついでに言えば「ライトノベル感想ブログ」なんてやっている辺りで私も何らかの権威を借りているわけですよ。うさんくさいったらないです。
というか考えれば「イヤな引用をしている最右翼」に存在しているような気もしますね。・・・でも可能な限り自分の言葉で語っていきたいと思っています。それはホントよ?

ちなみに

極限まで突き詰めるとこの話題はエライ所まで辿り着いてしまうので(オリジナルをひたすら求めるという作業は、文化や言葉や知識の否定に繋がる訳ですから)、あんまりいきすぎないようにしたいところではありますがね。
いま、「卑怯」という言葉がふっと思い浮かびましたが、多分そんな風に感じるんでしょうね。人がやるのはいいとしても(世の中には自分の分からない価値観が沢山ある)、自分では極力やらないようにしたい・・・そんな「引用」がある、そういう話でした。

結局の所

よく分からないけれども、今のところ自分の中にある「正しさ」や「美学」といったものが揺らいでいるという事が最終的な答えになるんでしょうか。まだまだこれから先も考えていかなければならない問題のような気がします。
どんなことでも口にした瞬間に陳腐になるという宿命からは逃れられませんし、どんなにオリジナリティが溢れた作品でも一瞬ごとに消耗された過去になっていきますし、どんな知的なやりとりもその直ぐ隣には井戸端会議的な下世話さが口を開けています。
そんな現実のなかで、一体自分はどういう顔をして言葉を発していけばよいのか? どういった姿*2が自分を許せる美しさを持っているのか? ・・・そんなことが気になっているのでしょうねえ。

で、

関係ないようなことだけど、今ふと思ったのは、

賢者は沈黙する

ということでしょうか。清らかに生きようとするなら、口を塞ぎ、目と耳を澄ましてひたすら前に歩いていくのがベストなんでしょう。ライトノベル感想ブログらしく言えば、

買って読んで何も言わない読者

であるのが一番美しい在り方なのかも知れません。
ただし私の場合、せっかく手にした「ブログ」という智恵の実を手放すつもりは(今のところ)全くないんですけどね。楽園からは追放されたかも知れませんが、表現をせずに生きることは最早出来ない体になりつつあるような気がします。・・・下界の住み心地が自分には意外に合っていた・・・そういうことでしょうかね・・・。
なんだか全然関係ない話になっちゃったなあ!

*1:そう考えると「痛いニュース」って実はやっている側からすると「痛くないどころか気持ちいいニュース」な訳だよね。自分の懐は全く痛まないままで、アフィリエイトで大もうけ! とか。

*2:ブログの運営スタイルですけど。