なんで幼い子供に萌えるか?

以前のエントリ「なんとなくキャラメイク考察」でこんな事を書きました。

ライトノベル(一般の小説もそうですが)のキャラに対する愛着というのは、恐らく半分以上は読者の脳内において発生した幻想であって、作者は読者に対してキャラクターについての「欠落のある情報を程よく作って」読者に対して「幻想のきっかけ」を上手に与える努力をしなければならないという事でもあります。それが足りないキャラクターは、読者の頭の中で一人で踊りだす事が出来ません。

ですので、妄想系作品としてより高みを目指すのであれば、

・作者によるキャラの描写は「絵画」「粘土細工」の様に「足して行く」芸術ではなくて、彫刻の様に「(幻想するのに)余計なものを削り落として行き」「そして決められた外殻の中をきっちりと埋めて行く」作業を行う必要がある。

という事になります。

以前はこれらの基準から「涼宮ハルヒの憂鬱」の各キャラクターという所の萌え要素がどういった脳内プロセスを経て発生しているのか考察していますが、同じ基準が幼い子供に対する萌えにも適用できるのではないかと思っています。

子供キャラに対する萌えの基本構造

生物学的見地から

基本的には「萌え」は(性的衝動をおぼえる本物のペド野郎を除いて)いわゆる、

「こいつぁメッチャ可愛いやんけ〜!」
「可愛いじゃねえかコンチクショウ!」

という衝動になると思いますが、生き物は生物学的にも子供を可愛がるように出来ているという話を聞いた事があります。子犬とか子猫を可愛がるのと同じところから出ている衝動ですかね。まあこれは情報ソースが取りあえず見つからなかったのでまあ一応あげておくという感じでしょうか。
まあ本当だとしたら、子供はその外見からして既に十分に萌え要素を一つ持っていることになります。

子供は子供というだけで本質的に幻想可能な部分を持っている

現実に存在している子供達を大人と比較した場合、どうしたって精神面の経験値的に人として未成熟ですね。
未成熟、つまり未完成の彫刻のように「完成していない」という一点において「欠落している」と言う事が出来る訳です。子供達本人がどう偉ぶっても、どこまでいっても荒削り、どこまでいっても未完成。
これはつまり「妄想の入り込む余地が大いにある」という事に他なりません。つまり、大人達は子供の無邪気さを幻想したり、脳みそお花畑っぷりを妄想したり、あるいはちょっとおませな所とかを勝手に自分の脳内で作り出せる訳ですね。
内面を幻想する余地がある」=「内面を想像して萌える事が出来る」です。

漫画、アニメ、ゲーム、小説などの「萌え」を育みやすい土壌の存在

欠落こそが萌えに必要な要素だとすれば「萌え」という言葉や文化が日本の漫画、アニメ、ゲーム、小説といった分野から発生したのは「当然の事である」と言う事が出来ますね。なぜなら手塚治虫御大辺りから連綿と続くこれらの文化が「リアルな人間として見るには多くの欠落を持ったキャラクター」によって作られた文化だからだと思います。
鉄腕アトム辺りを例にとっても良いですが、目の大きさや足の太さなどなどがどう見ても正しい人間の姿をしていません。しかしだからこそ「欠落した部分を想像する余地がある」訳です。これは今の漫画、アニメなどに同じような事が言えます。記号化が大きい程幻想の余地があるという事ですかね。
ひょっとすると「萌え」という概念はアメコミのヒーロー達などからは産まれなかったかもしれません。彼らももちろん記号化されてはいるのですが、日本の漫画に比べて間違いなく記号化されている部分が少ないです。ある意味よりリアルに近いと言って良いでしょうか。スパイダーマンは立派な漫画出身のヒーローですが、服装を除けばちょっとマッチョな大人に見えますし。
リアルに近い――それは「妄想系の作品か?」という視点で見れば間違いなく「違う」ものですね。妄想の入り込む隙間が少ないからオタクは彼らに萌える事が難しいのではないかと思います。

じゃあ子供を出せばいいのか?

そんな事はないと思います。
確かに上記の理屈から言えば、正確に子供を描写しさえすれば、読者は勝手に萌えてくれます。
だからといって誰でもそうしたキャラクターを作り出せるかと言えばそうではないでしょう。子供をいかにも子供らしい可愛らしさを残して無駄をそぎ落として描写する――言うのは簡単ですが、それは容易な作業ではありません。言わば「荒削りのままで作品に魅力を持たせる」という事に他ならないからです。何を残して、何を無駄と断じて削り落とすか? そこに作者の力量が問われる訳ですね。
しかしその作業に成功した場合・・・リアルな子供を正しく描写しても萌えられるのですから、敢えて作者が「ココが子供の可愛いところだ!」というところをピックアップしてばっちりと残して作品世界に流し込み、それが万人にとっての共通認識ともなれば、そらもうエラい事になる訳ですね。それを見る者に幻想を大量に与える事ができて、脳内は萌え波動でいっぱいになる訳です。

結論

  1. 人間は生物学的に子供を可愛いと思うように出来ている(多分)。
  2. 大人から見た場合、子供は存在自体が情報量が少ないので幻想の余地がある。
  3. 漫画、アニメなどの作品は、その存在自体が現実より情報量が少ないので幻想の余地がある。
  4. 1+2+3の現象が重なって、子供には萌えやすい。
  5. ただし、それを実践して作品世界に落とし込むのは難しい。しかし成功すれば非常に萌え指数の高い存在が出現する。

おまけ:実はこれ

絵画とか彫刻の世界とかではもうずっと昔に始まっていたとか思いませんか?
古いルネッサンス時代の絵画は神話などをモチーフにしながらもまだまだリアルな絵柄でしたが、人々の目が肥えるに従ってリアリティを追求した絵ではなく、印象派のような「計算された荒さ(とでも言えばいいでしょうか?)」を持つ作品が台頭してきました。
これは見る人たちの妄想力によって脳内に「その人にとってだけの『ひまわり』」「その人にとってだけの『サント・ヴィクトワール山』」を作り出そうという試みではないでしょうか? 印象派の絵画は、ルネッサンス期の絵に比べてみる人の妄想力に期待した絵になっているという事が言えると思います。
・・・そうするとゴッホが日本の浮世絵を見てショックを受けた理由も頷けます。優れた妄想力を持った画家からすれば、リアリティを大胆にそぎ落とした浮世絵は、

ちょ、おま、ナニコレ!? うわー! なんだこの胸のトキメキ! 萌え死ぬ!!

だったのかなあなどと思います(現代風に言えばですけど)。
そしてさらに時代は進み、シュールレアリズムなんてものも出てきます。こういったらなんですが、シュールレアリズムは完全に見る者の妄想力に期待した作風ですよね。

そんな見方をすると

ルノワール辺りは萌え絵師の大先輩という事になってしまいますが・・・なんだか考えていたら面白くなって来てしまいました。
あの有名な名作<舟遊びの人々の昼食>の、左下で子犬と戯れる幼い少女のなんと萌える事か! いつか我々が読んでいる漫画やラノベの挿絵や文章、アニメの画面なんかが由緒正しい美術館(ルーブルとか)に堂々と飾られて、ご大層な解説付きで展示される日が来るかもしれませんね。
そうして見ると・・・萌えの歴史は深いなあ・・・とか思ってみたりして。

ですので

究極の妄想力を持つ人間、あるいは未来のオタク達は「人間のような形をした人形」とか「ただの立方体」とか「ただの塊」とかが最高の萌え対象になりかねないという事ですね。
・・・将来、妄想力のニュータイプみたいなオタク連中はそうなってたりしたら面白いですが、普通の人から見たらよりコワい存在になっているでしょう・・・笑えませんが。

追記

なんかこのエントリ、ロリ野郎である管理人が必死に自分の性癖を正当化/普遍化しようとしているように読めなくも無いですが、そういう穿った読み方はしなくても良いです。なぜなら私がロリコンじゃないからです。会社の同僚の石田さんも「お前は全方位型だ」って言ってたから、つまりはロリコンではないよって事ですね。
ほら、そもそもこのサイト自体がお子様にも安心して薦められる有料サイト・・・じゃなかった優良サイトである事がこれらの裏付けになっているかと思いますので、大丈夫大丈夫、いい子にしてれば痛く無いよ? 天井のシミの数数えてるうちにぜ〜んぶ終わってるからね。じゃ、ほら最後の一枚をポイってしちゃおっか!?(いや本当に冗談だから)。