見られるの、意識してる?
ライトノベル名言図書館ー人に知られるブロガーになるという憂鬱
一本足の蛸ーあなたは見られている
一本足の蛸ー葉山響の法則【完全版】
この辺りのエントリからなんとなく思った事を幾つか。
まあ私の場合普遍的な事はなかなか書けない人なので、個人的な考えでエントリを書いてみたいですね。
ブログをどんなものと位置づけているか?
これまで私はこのブログを、“普段表にすることのない感情を吐露する場”と位置付けて、感想や日記を書いてきました。
(ライトノベル名言図書館さんから引用)
確かにON(ブログ)とOFF(実生活:普段)では全く違っていますね。
私は実生活では、人間関係の為に最低限必要だと思われる自己主張以外はしない人間です。無用な衝突を極力避けて通るタイプですね。
ですので過激な反対意見や、感情的な意見を口にする事などほとんど無いです。基本的に実生活では「長いものには巻かれたように見せとけ」という感じですね。
その反面ネットでは「言える限りは言う」ところがあると思います(ここを読まれている方はご存知の方が多いような気がしますが)。
そうですね・・・仕事のやりにくさとか、人間関係の複雑さとか、色々立場があって言いたい事がなかなか言えないという制限は実生活だけで十分です。
ネットだって実生活の一部でリアル/ヴァーチャルの区別なンて実際には無いだろ。なんで態度が変わるンだよ。
と、思ったりはしますが、一応匿名でもあることだし・・・最近は、「Second Lifeみたいなものかな〜?」とか思ってますね。
まあ、あまりにも変な事をやらかせば実生活に影響だってでるでしょうけど・・・その辺りの線引きは「まあ、ここらへんまでなら大丈夫じゃないかな〜?」とか思いながらやってます。
基本的に手探り状態ですが・・・そうですねえ、経験を積んで少しは洗練されてきたかなあ? なんて思ったりしてます。「地雷フォーマットを作ってみました」なんてエントリはそうした結果生まれたシロモノでしょうか。
ついでに言えば
ブログ名に「感想」という言葉が含まれている通り「感想を書いている」という認識はありますが、「日記を書いている」という感覚は持った事無いです。
私の場合、日記と割り切るなら自分だけしか見られないようにするかな?
閲覧者の存在を感じるか
私にとって、閲覧者の存在感は、非常に稀薄です。
(ライトノベル名言図書館さんから引用)
えーっと、個人的にはこのエントリを書いた辺りで混沌としたものになっています。言葉で言えば、
「見られてる・・・何者かがこっちを確実に狙ってやがるぞ! どこにいやがる!」
感覚としてはスナイパーに狙撃された直後(一応弾は外れた)みたいな心境ですかね。ただし、コメントとかつくまでは
「いるって聞いているけど、本当にいるのかな〜?」
という感じ。そっか、コメント/トラックバックは弾丸なのね・・・。
さらに言えば
実は、「最初に不特定多数の人からコメントを大量にもらったのが上記のようなお笑いエントリだったのがラッキー」だったと思っています。これは多分今の認識に大きな影響を与えてくれていると思います。
社会性と発信力の齟齬
私の社会性が充分に成長しないまま、つまり半人前のまま、要するにバカなのに発信力だけが増してきたような気がして。
(ライトノベル名言図書館さんから引用)
この辺り、私も同じような不安はありますね。実は相当不安です。
しかしまあ、自分の場合はこれから気長に身につけて行こうかな・・・とか思ってます。歌にも、
「馬鹿を気にして生きるほど 世間は狭かないだろう」
(尾崎 豊:遠い空)
ってありますし。
へこんだり、愚痴ったりしたくなる事はありますが、可能な限りあっちにフラフラ、こっちにフラフラしてみようかなあ・・・なんて思いながら日々エントリを書いていますね。
私が変な事をやらかしたり、誰にとっても理不尽な事を言ったりしていれば、おそらく親切な誰かが、
- 「お前、頭おかしいのと違うか?」
- 「あんた絶対間違ってる」
という趣旨(あくまで趣旨ね)の冷静なコメント/トラックバックを(多分)誰かがくれると思いますので、そういったコメント/トラックバックがついた時に色々勉強するしか無いかなあ・・・って思いますね。少なくとも今まではもらえているので、今後もきっともらえるかなあとか思います。ありがたいことです。
以前「学校の階段」を酷評したときの話ですけど、こんなってエントリを書いた事があります。今でもここに書いた心境は変わらないですね。
それに加えて「自分がどの程度周囲から乖離しているか?」って事に関しては、ある程度予習は出来ても、実際の所は他の人からの指摘がなければ計りようがありませんしね。
で、その乖離に気がついた時に「歩み寄るべきなのか/我を通すべきなのか」を真剣に検討するしかないかな、とか思います。
葉山響の法則?
存在を知りませんでした。
あんまり真面目に考えたことはないですが・・・
第一法則
自分の名前や作品名で検索してネット上の感想文を読んでみようとしない作家など存在しない。
第二法則
仮に作家本人がインターネットに接続できなくても、必ず周囲の人がチェックして教えている。
第三法則
語り得ぬ駄作については「○○先生の作品が読めて幸せです」とコメントするといい。
(いずれも「一本足の蛸ー葉山響の法則【完全版】」から引用)
それぞれについて私がどう考えているか一応書いてみます。
第一法則/第ニ法則
私はこれを承知で酷評とか書いている所がありますね。
ライトノベルにしても何にしても、
「ネットのどっかで誰かひとりが書いた感想の一つや二つ程度でダメになるモノならどうせ成功などしない」
と今の所思っているフシがあります(自分の事なのに曖昧ですいませんが)。
車とか、家電製品とか、音楽とか、映画とか、会社自体とか、テレビ番組とか、何かのデザインとか、なんでもですけど、人によって感想や批判が書かれないものの方が珍しいのではないかと思います。でも生き残るモノはそういうものを乗り越えて生き残っていますよね。
私は冗談まじりに自分の事を「褒めると伸びるタイプです!」なんて書いた事がありますが、そういう作家も実際にいるでしょう。逆にこき下ろしたことで「この野郎! ぜってー面白いって言わせてやる!」って人も居るでしょう。叩いて伸びるタイプの人ですかね。
どっちにしたってその辺りは編集者が上手くコントロールして、
- 「蘭の花のようにきっちり温室で育てるか」
- 「トマトのように敢えて荒れ地で育てるか」
とか考えなきゃなりませんよね。・・・でも、その辺りのことはビジネスでやっている人(作者本人と関係者)が考えて下さい。
第三法則
全力でこき下ろしそうですね・・・私の場合。
結果として次の作品が驚くほど面白くなっていたら個人的には手放しで絶賛するでしょうし、こけたらこけたで無駄な紙資源の消費が抑えられたというとこで、森林の伐採が減少し、CO2削減の役に立ったと思う事にします。
ただし!
- 「作家本人と面識がある」
- 「作家本人からコメントがつく」
とかになると話は別ですね!
もうこうなると私的には「ネット」と「実生活」の境目が曖昧になりますので、多分過激な事は書けなくなるでしょう。今の所そういう目には会っていないので、はっきりとした事は分かりませんが。
コメント返しになると途端に口調が柔らかく/あるいは丁寧になるのは、自分の考えている事を表現したい相手が、
- 「居るか居ないか分からない曖昧なもの」(このブログを見る事が出来る環境にいる誰か)
から、
- 「実在している人」(特定個人)
という感じで、相手の存在をはっきりと意識するからでしょうね。
上でもスナイパーの例を出して説明していますが、そうなると仇や疎かには出来ません。誠心誠意相手をしなければならないなあと思います。
ですので
・・・言いたい放題言えるのは、関係者の苦労を知らないからだろうなあ・・・とか良く思いますからね。
ですので、今後も可能な限り作家本人とかには会いたくないですね(今の所どんな作家とも会った事はありません)。私の場合、すぐ感情移入して、つまらない本でもヨイショエントリを書いてしまいそうだから。
こんな感じ?
ですかね。
なんともまとまりに欠ける文章ですが、とりあえず現在はこんな感じです。