”文学少女”シリーズ5 “文学少女”と慟哭の巡礼者

“文学少女”と慟哭の巡礼者 (ファミ通文庫)

“文学少女”と慟哭の巡礼者 (ファミ通文庫)

違和感」は読む前から頭の片隅をかすめていた。
つい先日、4巻の「”文学少女”と穢名の天使」の感想に、たかあきらさんからコメントがあった時の事だ。彼は一連のやり取りを踏まえた上でこのように書いている。

美羽の“醜さ”と心葉の“幼さ”が、“文学少女”の語りで浄化され、そして昇華して行く様が、とても綺麗でした。

本を読み終わるまで私にはその「違和感」の正体が分からなかった。
しかし読み終わった今、その理由が形を取り始めて、私を苛んでいる。


星の数を見ればお分かりのように、物語を私は楽しんだ。非常に美しい物語なのだ。
しかし、私はこの物語の美しさ故に、この本を破り捨てるだろう


・・・残念ながら感想に物語本編の事を書く気にはなれなかったのです。そして以下の文章は感想未満の拙く酷い文章で、自分以外読む価値があるとは思えないものです。
それでも興味があるという方は、どうぞ。

妬ましい。
羨ましい。


彼らは、
愛と恋に汚れきって、
憎しみと苦しみに傷つけあって、
そして最後には癒しを手に入れた、


その彼らに、
私はただひたすら黒々とした嫉妬をする

さぞかし苦しんだだろう・・・。
・・・しかし訪れた救いの味は・・・蜜の味だったろう? 旨かったか? 旨かったか?

私に思い浮かぶのはこんな浅ましい言葉。
こんな事を熱に浮かされたように書いている私の中・・・そこにはただ果てしなく、下衆で陰惨で低俗なゴシップを求めるような、安全な所から人の苦しみを覗き見て、自らを慰める半端に薄汚れた魂があるだけだ

この醜い嫉妬は、宮沢賢治の詩を以前に読んだ時にも感じたものだ。
その詩を以下に引用する・・・。

「目にて云う」


だめでせう
とまりませんな
がぶがぶ湧いてゐるのですからな
ゆうべからねむらず血もでつづけるもんですから
そこらは青くしんしんとして
どうも間もなく死にさうです
けれどなんといい風でせう
もう清明が近いので
あんなに青ぞらからもりあがって湧くやうに
きれいな風が来るですな
もみぢの嫩芽*1と毛のやうな花に
秋草のやうな波をたて
焼痕のある藺草*2のむしろも青いです。
あなたは医学会のお帰りか何かは判りませんが
黒いフロックコートを召して
こんなに本気でいろいろ手あてもしていただけば
これで死んでもまづは文句もありません
血がでてゐるにかかはらず
こんなにのんきで苦しくないのは
魂魄なかばからだをはなれたのですかな
ただどうも血のために
それを云へないがひどいです
あなたの方から見たらずゐぶんとさんたんたるけしきでせうが
わたくしから見えるのは
やっぱりきれいな青ぞらと
すきとほった風ばかりです

本は売れず貧困で、死の床にて肺炎でのたうちながらも、このような果てしなく美しい詩をしたためる事ができた、彼の美しく昇華した精神に対して感じる敗北感と嫉妬と同じものだ。
そして私は自分の中に、他者の幸せをただただ憎悪する、テロリストの精神を発見する

・・・嘘という真綿に包まれた安穏と、繰り返される代わり映えのないこの命と、そこそこに腹の満ちた暮らしの淡々とした幸せ・・・そんな中にいるために、自ら絶望や苦痛を求めて旅立ちたくなる程、私は下衆だ。
美しく燃え上がる物語の中の彼らの青春の前に、自分の魂が真っ黒く照らし出される。
ここにいるのは誰だ。
物語を貪りながらも物語では決して救われない現実の私だ。
書いても書いても何も残らない様な気がする私だ。
そこら中に転がっている大した事のない失望を、さも究極の絶望のように語って自分を誤摩化しながら生きて来た私だ・・・。

宮沢賢治のように、貧困と絶望に喘ぎながらも美しい物語を綴る事が出来るような精神はもちろんここにはなく、
心葉の様に美しく誰かを一心に信じて高める事も無く、
美羽の様にひたすら真っ暗な絶望を過ごして来た訳でもなく、
ななせの様にウブながらも純粋に誰かを案じて来た訳でもなく、
一詩のように誰かを受け入れる戦いをして来た訳でもなく、
流人のように自らを知りつつその意味を見出して来た訳でもなく、
千愛の様に自らの未来を賭けて幸せを求めた訳でもなく、
そして、私を暴く文学少女はいない・・・。


劇的な絶望も無ければ、
闇を貫く様な救いもない。
ただただ柔らかく醜悪で、老いた失意の塊があるだけだ。

この道に、美しく生まれるものは何も無い。
私は嫉妬の念から、彼らの青春を憎悪する。
私は嫉妬の念から、自らの届かなかった過去に失望する。
私は嫉妬の念から、報われた彼らに憎悪の拳の一撃を用意する。
他に何も無い。
私はついに、心の中に埃っぽく乾いた行き止まりを発見する。

感想リンク

*1:注:新芽の事。

*2:注:いぐさ