私はこんな風に思ってます。あなたはどうですか?

私は

コメント欄とかで私はしばしば「相互理解」という言葉を口にします。
特に、私の書いた「感想」とか「雑記」とか「まとめ」とかの内容に反対するコメントを書かれた方とかと話をする時にこの言葉をよく使う様な気がします。以前「オタクが怖い」というエントリを書いた時にもこの言葉を使いました。

そしてまた、「相互理解を進めたいという私の気持ちの裏側にある恐怖」を表現したかったという事ですね。

こんな風に。
で、その事について今日あたりちょいと考えました。主に便所とかで*1

で、思い至ったのが

誰かを褒めたりとか、批判する事とかは私にとって全く同じ所から出ているという事。
それは・・・自分の「価値観」ですね。
そしてさらに始末の悪い事に、現在の自分の持っている「価値基準」を今の所変えるつもりもさらさらないという事と、それに則って何かを褒めたり貶したりといったことを止めるつもりがやっぱりさらさらないという事です。

ところで

先日読んだ、「魔王14歳の幸福な電波」さんの「おかげさまで、つまらない作品を読んだことがありません 」の中にこんな一文が出てきます。

でも、世間では「自分の評価軸に合わないこと」を根拠として作品そのものを全的に否定する論法がまかり通ってしまっています。その「評価軸」は数ある内のひとつとしての、属人的、属文化的な限定的なものでしなかいのに、人はそのことを容易に忘れてしまえます。

・・・私は多分、ここで言及されているそのまんまの人なんじゃないでしょうか? id:Erlkonigさんが何を、誰を、心の中で思ってこうした事を書いたのかは、正直な所分かりません。でも私に向けて言われているような気がしたのも事実です(考え過ぎだとしても別に構わないです)。
自分を省みた時、確かに私はそう言う所があるなあと、正直に思ったのです。
続けて彼は(あるいは彼女は?)こう提案します。

だからここで私もひとつの価値基準を設定して、その中でものを言います。喧嘩の勝ち負けや自分の利益でなく公平で正確な分析・議論を目的とする、もし私たちがそういった態度に価値を見出しているのなら、特定の評価軸に頼って作品を否定したりその読者を貶したりするのはもうやめましょう。

・・・ゴメン、無理。私にゃ多分無理。
こうした言葉を綴る事ができるという事を素直に凄いと私は思いましたが、なんで凄いと思ったかというと「自分には絶対マネ出来ないと思える態度だから」なんですね。

この文章の

何から何までマネ出来ないと思われるとアレなんで、ちょっと細かく自分の考えを記して行きたいと思います。
念のため前もって断りますが、以下は「私には出来ない」という理由を述べたものであって、id:Erlkonigさんのスタンスを否定するものではありません
ついでに言えば、元の文章をもの凄く間違って理解しているどころか、なんでid:Erlkonigさんがなんでこうした事を書いたのかといった動機や心情を、全く理解していない可能性がある事も追記しておきます。その時は容赦なくツッコんで下さい。

喧嘩の勝ち負けや

私自身はあんまり意識した事はないですが、恐らく私という人間はそういう些細な事から完全に逃れられないと思います。そこまで理性的/合理的にはなれないでしょう。多分。

公平で正確な分析

私、全然公平になれません。「正確な分析」なんて夢のまた夢です。単純な数学的な間違いについては「ゴメン! 間違った!」と言えますが、自分の価値軸からは逃れられそうになく、いつだって自分にとってだけ正しい事しかありません。だから間違っても公平じゃありません。だから・・・(下に続きます)。

もし私たちがそういった態度に価値を見出しているのなら

悪気はないのですが、見出してません。だから特定の価値軸に頼って作品を褒めたり貶したりは今後も続けるでしょう。読者を貶すのは、今の所予定にないですけど。
ですが、その後に続く文章、

誰かの誉めるある作品の面白さが自分に全然分からなかったとしても、それで自分の価値基準や感性が否定されるわけでは全然ないのですから。

これには全面的に賛成ですね。
というかこのように感じてしまう人の事が不思議です。「それはそれ、これはこれ」じゃないですかね?

という訳でここから本題

全然公平で正確にはなれそうもない私ですが、それでも「相互理解」という言葉をしばしば使いますし、意外に重視しています(あるいはそのつもりです)。
でも、上の自分の態度を見る限り「俺は相互理解をするつもりなんてねえ!」みたいにも感じますね。だって公平になれない、正確にもなれない人間に「相互理解」なんて出来っこ無くない? という感じがします。
それどころか「相互理解」という比較的響きの良い言葉を使っておけば騙せるからまあいいか・・・みたいな。
こりゃ変だ、矛盾している。
公平や正確じゃないのは自分ではまあ許すけど、人の意見に対して美辞麗句を使って騙したり逸らしたりというのは良くない事だと自分の「価値軸」で思う。
じゃあ、なんじゃらほい? 場合によっちゃあ直さなアカン、というのが思考の始まりだった訳です。
・・・長い前置きですな。

よくよく考えてみると

私の言う「相互理解」は「ただ単に相手のスタンスを理解する事」であって、「同じ価値軸を獲得しようという試み」とか「たくさんの価値軸を獲得しようとする試み」という事を指しているのではない、という事に気がつきました。

「自分はこう感じる。あなたはどうですか?」
「自分はこの作品を素晴らしいと感じた。あなたはどうですか?」
「自分はこの作品を最低だと感じた。あなたはどうですか?」

自分の評価軸を変えるつもりも無いし、それに則って褒めたり貶したりする。しかも私は間違っても冷静な人間とは言い難いし、私以外の何者にもなれそうにない。
でもそこではいつだって「私と違う価値軸をもっているであろうあなたはどう感じました?」という事を考えている。そして私と真逆の意見が出てきても全然驚かないし、大抵の場合にはそれはとても素敵なことのように思える
私は自分と違う価値軸を持っている人と色々話をしたい。そしてその違いを理解したい。そしてその上でその全く違う価値軸の存在を許したい。場合によっては私という人格や価値軸を否定したり罵倒したりする人も出てくるかも知れないけれど、可能な限りそれすら許したい。
人は全員違う、そして違う事は理解出来ないという事に繋がり、そしてそれは時に不気味で恐ろしさに発展したり、場合によっては直接/間接的に自分のアイデンティティを否定されいるようにも感じたりする・・・攻撃したくなる程腹が立ったり、貶めたくなったりもする。でもその情動が尊いとも思う

だから

私の言う「相互理解」とは

  • どうしようもなく分かり合えないかも知れないという違いが存在する事をお互い理解しよう

という事であり、その上で

  • その違いをお互い可能な限り許そう

そして、

  • そんな偏った価値軸しか持てない私が存在していることをどうか許して欲しい

という事なんですね。
だから私はこの文章に対してもこう思います。
馬鹿って思われても、キチガイと思われても仕方ない、うざったいと思われても、イタい奴だと思われても、たとえワナビと思われようと、あるいはちんこでも、変態でももうなんでもいいですけどね、その結果貶されたり罵倒されたりしても仕方ない。
とにかく仕方がない。だってみんな違うんだもの。それはとても怖くて、でも違う事が素晴らしいと思っていて、時として衝突する事すら愛おしくて・・・でもそしてその結果変わって行く事は最高の奇跡であるのだと思うから。
そしてなにより、これが今の私なんだもの。
だからいつだってこう思います。

「私はこんな風に思ってます。あなたはどうですか?」

*1:なんかこんなんばっかしだ。