冷静になったら負けかなと思ってる

ラブレターを書いた事があるだろうか?

うん、恋する相手に自分の思いを伝えるあの「ラブレター」です。
俺も書いた事があるような気もする。いや、無かったか? まあこの際それはどっちでもいいや。
で、誰かの助言だったか格言だったか忘れたけど「夜書いたラブレターは翌朝に読みなおせ」ってどこかで聞いた事がある。で、言われた通り実際に朝になって読み返すと、自分で読んでいてもの凄く恥ずかしい事が書いてあって、

「昨晩の自分の頭はおかしかったんと違うかー!?」

と思ったりする。
で、いきなり昨晩書いたラブレターを破り捨て、昨晩の自分に一人で勝手に赤面し、まあ大抵の場合無かった事にするんじゃなかろうかな〜なんて思ったりする。でもまあ、最近はラブレターもメールだから送っちゃった後に、

「うわぁー! もう送っちまったー!」

ってなる事が多い様な気もする。
もしその赤面ラブレターの結果付き合い出したとしても事ある毎に彼女に、

「前もらったメールにねえ、こーんな事書いてあるんだけどぉ・・・音読する?」

とかニヤニヤした顔でからかわれたリする訳ね、多分。
まあ分からんけどな! 最近の人じゃないからな! つーかそれはそれで幸せそうで羨ましいというか畜生!

とまあ

熱に浮かされて書いた文章について「空中キャンプ」さんが書いている。ただし、推敲する事について「うーん、どうだろう」という感じで*1

しかし、わたしはこの方法がどうも苦手だ。時間を置くと、いったいどうしてこんな文章を書いたのか、自分でもよくわからなくなってくるし、なにをおもしろいとおもって書いたのか、いまひとつおもいだせなくなってしまう。もちろん、文章を書き直すことで、感情の入りすぎていた部分は削られて、気持ちだけが空回りしていた言葉は、もっと別のフレーズに置き換えられる。だからこれはきっといい文章なのだ──すくなくとも、推敲前よりはずっと。でも、このテキストっておもしろいのかな、とわたしはおもう。きっと、文章が当初に持っていた熱は、どこかへ逃げてしまっている。

それだったら、後から読んだときに、すこし恥ずかしくなるくらいの文章が書ければいいなといつもおもう。

引用は両方とも「空中キャンプ」(いい文章を書きたいのであれば)より。

うんうん

分かる分かる。
書いた瞬間に持っていた激情は推敲を重ねただけ何処かに消え去って、結局ただの色気の無いスカスカな文章だけが残ってしまったと思う事が多々ある。昨晩の自分の心にあった「得体の知れない塊」はどこに行っちゃったんだい? と思う。
ただ、そうした「激情型文章」は誰かに何かを伝えるという「公開する文章」としてはどうなのよ? という側面から言えば、それは読み手次第だから反応が返ってくるまで分からないんだけど、大抵の場合言葉足らずになるだろうし、他の人からすれば読み辛かろう。
それどころか暴走する感情がそのまま載った文章は少々危険ですらある。

でもねえ・・・

「私」が「自分自身に読ませる文章」として考えた場合はどうだろう?
正直に言うと最初の勢いにまかせて書いた文章がいちばん興味深いと思う。
で、そんな感じで激情のままラブレターならぬエントリを書いてしまってアップした挙げ句、

「ああ、昨晩の俺は実に馬鹿だった!」
「なんて恥ずかしい事を!」
「うわーこのエントリ削除してえ〜!」

とか思っている文章が実は沢山あったりする。
もう正直言って山ほどある。雑記は色々種類が違うのでなんとも言い難いのだけど、感想には結構ソレがある。特に5つ星がついている作品とかに多い。猛烈に恥ずかしい文章がある。
でもその時自分が感じていた事がイヤって程伝わってくる文章は、えてしてそんな「恥ずかしい文章」だったりする。

そもそも

私のブログは私的な記録の側面をもっている・・・というか7、8割はそっちなので「あの時俺はこんなだった」「あの時はこんな風に感じた」と分からなければ意味がまーったく無いという事に気がついている。
昨日の自分と今日の自分はもはや別の人だ。一ヶ月前の自分ともなれば似ても似つかない存在に成り果てている可能性もある。そして以前の自分がどう感じたかを今の自分が読んで分からないようであれば、もうブログを書く事そのものが無意味だという事になる。

結局の所

私は読んだ人全員に等しく正しく伝わる文章を書く事に興味が無いんだな*2
未来の自分に過去の自分の「心のゆらぎ」のようなものが残せれば、まあ、いいかと思っていて、そのつもりで文章を書いている。
そして「あわよくば」読んでくれた全然別の人の心の中にもその時の私の「心のゆらぎ」の様なものが伝わればなあ・・・とは思う。
まあその「ゆらぎ」が他の人に伝わった結果「おもしろい」「もっと書け」「コイツ最低」「死ね」とか色んな反応が出てしまうのはまあ、良くも悪くも「そっかー、うーん」としか言いようがなかったりするけど。

もし仮に

私が自分の信念やプライドや意地や感情を捨て去って、尖って書かれた文章を推敲して推敲して・・・心の尖った所を丸めた文章を書いたとする。
で、その結果、他の人から見て「良く書けてる」とか思われて、ブックマークとか沢山付いて、ニュースサイトに補足されて、アクセス数がメチャメチャ伸びたとする。ひょっとしたらそれはそれでブログとしては、あるいは自分の考えを表現するという「外部に公開する文章」としては意味ではある種の成功なのかも知れない。
もちろんそういうやり方をして成功しているブログは多分あるだろう。そもそも書き手がどういう思いで書いているかなんて結局の所読み手がどう思ったかになってしまうから想像するほかない。だからその方法論自体は間違いだとか思わない。私が読んだときの好き嫌いはあるかも知れないけど、方法自体が間違いとかなんて事はない。
それぞれ個々人の理想がそこにあるだけだから、それぞれ信じた通りにやるのが一番だと思う。
しかし、現時点でそのやりかたを自分が取り入れた場合には「自分自身に読ませる文章」としてはゴミになってしまうと思っている。ゴミというか、屈辱的ですらあるかも。そんなものを「書かねばならない」のならこのブログは存在している意味が無いから、今の所「冷静になったら負けかなと思ってる」。

とかなんとか言いつつも

まあこんな感じ方だってそのうち変わるかもしれない。全く180度変わってしまうかもしれない。
今日はこうだけど、明日は変わってしまうかもしれない。だから記録を残そうと思う。その変わった瞬間を未来の自分に残してやろう。そして変わって行く様を誰かに見てもらおう。そして時々親切な人に突っ込んでもらったりしよう*3
そして、変わったら変わったで、それはとても面白い事だと思う。その時にはまた「どうして感じ方が変わったのか」を書こう。その場の閃きと勢いにまかせて、自分で感じた事だけを頼りに、思いっきり感情を文字に載せて。

*1:そんな適当な要約でいいんかい! という気がするのでちゃんとリンク先を読んでくれないと困る。

*2:コメントは別ね。相手あってのモノだから。

*3:つい最近もあった。「なんか薔薇のマリア以前より評価高くなってないですか?」って。うん、変わった。突っ込まれなきゃ「変な違和感」で終って気がつかなかったんじゃないかな。・・・というかこの文章自体つっこまれた。助かった。