「嫌なら見るな」を撲滅する前に

年賀状ばりに

id:y_arim氏に丁寧にもブクマコメントにお返事を頂いてしまったので、こちらも簡単に書いてみようと思う。

「異を唱える者とは徹底的にやりあうべし」やりあって戦争にならない上手い方法があればいいけど。消耗戦になった結果数が多い方だけが生き残るような世の中は見たくないな。/「嫌なら見るな」撲滅したくない派。

そういう意味での戦争をぼくは否定しません。最初から、触らぬ神扱いして異なる価値観と共存することにはどうしても馴染めないのです。このあたりはネット上のライトノベル論壇(というものがガンダーラあたりにはあると聞きました)への強い反感とつながっています。

正直に言って

彼の気持ちは良く分かる。
その怪しげな神がガンダーラにいるかどうかは分からないけれども、「最初から、触らぬ神扱いして異なる価値観と共存することにはどうしても馴染めないのです」と彼は言っている。
例えになっているかどうか分からないけど、僕も自分の感想で平気で否定的な事を書く口だから、そういう方面(異なる価値観)との衝突は良く起こる。というか、僕がわざわざ異なる価値観との衝突を起こすトリガーを引いているとも言える。
で、その結果としての対話(衝突)の中で彼が言うとおり、

やりとりのなかで、aはAの魅力を、bはAの拙さを再認識し、それぞれ自らの感情、思考をいっそう明確にできる。曖昧なままに表出していた「好き」「嫌い」が、輪郭を帯びてくるのだ。

を実感(時々だけど)している人間でもあります。多分だけど・・・。

だから

異なる価値観に対して「触らぬ神に祟りなし」という事で無理/無視して無理矢理共存するという姿勢を忌避したくなる気持ちも分かる・・・と言って良いんじゃないかな?
だから、元エントリにおける彼の嘆きも理解出来る・・・と思う。

これは相互理解を初手から放棄して自ら蛸壺に篭もる態度の表明である。Aが好きなひとaと嫌いなひとbがいて、bがAを嫌いと述べるとaがbに「嫌なら触れるな」と言い放つ。bがこれを受諾した場合、aとbにそれ以上の軋轢は生まれないが、それ以上の交流も生まれない。もしネット上で出会っただけならば、往々にして彼らはそれっきりである。とても寂しいことだ。
(上記の引用元は全て、HINAGIKU 『らめぇ』「新年もマシンガン その1:「嫌なら見るな」を撲滅したい」

でもね

個人的には彼がそれを本当に「寂しいことだ」と思っているのかどうかが正直胃の腑に落ちて来ないんだな。
なんでかと言うと、しばらく前に彼の事に興味を持って、彼のブックマークを覗いてみたからななんだけど。その時ちょっとしたショックを受けたのですね。それは・・・彼のタグクラウドには結構過激な言葉が並んでいたからなんですけど。

[死ね]
[死ねばいいのに]
[この蟲野郎!]

・・・まあ他にもあるんだけど、こういったタグが並んでいたりする。
正直な所、彼がどんなつもりでこうしたタグを使用しているのかは本人にしか分からない所があるから想像する他は無いのだけど、僕個人としては「死ね」はマズかろうと思ったりはする。これは相互理解を初手から放棄している態度ではないのかなとか思うからです。

お笑い芸人の

ブラックマヨネーズの最近の決め台詞に「死ね!」というのがあるけど、あれで発生する「笑い」というのは、最初真面目に意見交換、そのうち徐々に喧嘩になるまでやりあった挙げ句の果てに、今までの必死の会話や議論や意見交換を完全に亡き者にする全否定としての「死ね!」を発するからなんだよな〜なんて思うんですね。
それまでの喧嘩や議論が当人同士に取って「真剣かつ真面目」に見えれば見える程、それが全部無意味になって崩壊する「死ね!」という断絶が笑えたりする。

「お前ら今まで下らないネタで真面目に話して、しまいには大喧嘩した挙げ句の果てに『死ね!』って・・・今までの必死の会話や歩み寄りは一体なんだったんだ! 両方とも馬鹿だな〜! つーか最初から馬鹿なんだけどな〜!(笑)」

という感じです。

でもさ?

例えばブックマークから生まれる交流があったとして(今回のように)、最初に上記の会話でのトドメの言葉の「死ね!」と同じような意味を持つ、「死ね」やら「死ねばいいのに」という言葉を言われてしまったら、一体私ならどう思うかな? ・・・確か彼が僕のエントリにこれらのタグを付けた事は無かったと思うけど、僕の場合なら単純です。

あ、私の存在全否定されちゃった。という事は彼は私と相互理解するつもりがないのだな。

ですかね。
つまり彼に「相互理解を放棄された」「罵倒された」という気持ちだけが残って、それ以上の僕からの歩み寄りは起こらない・・・つまり、相互理解をしようという気持ちにはなれない・・・簡単に言うと対話する気持ちになれないだろうという事です。

まあ

実際の所、これらの過激な言葉は彼なりの「相互理解のトリガー」としての「挑発」、あるいは自分の立ち位置を表明するための「看板」みたいなものなのだろうな・・・という風に思っている。
事実彼は「不特定の誰か」ではなく「特定の誰か」との対話の時、丁寧に言葉を選んでいるという印象を受けます。だから最近は特に難しく思う事はないのだけど、彼が本当にどう感じているのかとかは分からないから、これらは僕の勝手な想像の域を出ません。
でも彼の言葉を初めて見た人は単純に「彼に『死ね』という名前の付いた蛸壺にお前が篭もれ」という態度の表明をされたという感覚しか持たないのではないかな? 少なくとも僕は端から見ていて最初そう思っていたし。

議論は

面白いけど難しい。
議論そのものというよりは「議論が議論として正常に機能するための土壌作り」が難しい。少なくとも僕は今の所そう思うんだな。脳みそをフル回転させつつも、感情的に相手の全存在を否定してしまったりしないような場の形成は非常に困難だと思ったりする。
だから、彼の気持ちは分かるけれども、今のままだと難しいんじゃなかろうか? と個人的には思っている。
簡単に言うと「相互理解に至らないまま断絶してしまう事がとても寂しいこと」と彼が本当に思っているのならば、「嫌なら見るな」を撲滅する前に、僕は彼には上記の過激な「相互理解を最初から否定していると受け取られかねないタグ」を使うのを再検討して欲しいな〜と思ったりしました。怖いし、近付き難いし、相互理解を拒絶しているように見えるから。
さらに、誤解や感情の軋轢を恐れずに言うとすれば*1

「死ねって言う奴が死ね!」

で終ってしまうと思うからなんですけどね。

という訳で

私の新年の挨拶代わりのお返事エントリでした。どれだけ縁があるか分かりませんが、今年もよろしく。
あ、一気に書いたから、言葉が足りなかったらごめんな〜!

追記

よく考えたら、彼の愛する「ヒナギク」とやらが一体何者なのか私が知らない時点で、何か色々と大事なモノを見落としているような気がして来ました。これでない事だけは間違いなかろうから、恐らくこちらなのではなかろうかと推測してみたりしました。あってる?

*1:彼なら通じると思う