オタクの道は、いばら道?
最近ね
「ちょっと理解しがたいのだけど」
しかし、
「ただ者ではない」
と評価している二人のブロガーのエントリを読んで、自分とのスタイルの違いに驚愕しています。その二人はもうズバリ、id:kaienさんと、id:y_arimさんだったりするのだけど*1。
私見で申し訳ないけど
彼らの、あるコンテンツやある文化*2に対する姿勢をじーっと遠くから、時には近づいて、眺め続けて感じた事があります。
それは何かというと、あるモノに相対するときの彼らの姿勢は、私からすると「趣味」の域を超えているように見えて・・・それはもう「信仰」とも言えるようなモノになっていると感じる、という事。
時として彼らが迸らせるエントリから感じるのは理論や感情を超えた先の・・・「祈り」とも言えるものに見える、という事。
表現の仕方は
二人のブロガーはそれぞれ違うけど、それは信仰の違いというよりは「祈りの聖句」を唱えている言語が違うだけで、僕からは同じ神に祈っているように見える。
そこに僕は・・・その信仰を支える文化的な背景を根本的に理解出来ない外様の人間には決して分からない、ある種の熱狂に包まれた崇高な気配すら感じる。
ただし、信仰を持たない人間は彼らの生き方や感じ方を「理解出来ない」という感覚を持つだろう。それがオタクの虐げられる理由なのかもしれない。僕は運良くそういう風に受け取らずにすんでいるけれど。
それらと比べた時
自分はどうだろうかとか思うと・・・これが信仰とは言い難い。どう考えても趣味の域を出ない。
日曜日に礼拝に通うのは、同じ教会に可愛いあの子が出席するからだし、仕事で必要なら平気でその信仰の対象すら変える事が恐らく出来る。そこに「自分のLifeと分ちがたく結びついた何か」を見出す事は出来ない。自分を追い詰めてまでその道を辿ろうなどとは思えない。
私もライトノベルの感想ブログなんてやっていますけど、一度は完全にラノベを読むの止めましたしね。また止めようと思えば出来るでしょう。酒や煙草以上に楽に止められそうです。
正直に言って
僕は彼らのように自らを追い詰めるかのようにして道を歩き続ける事は出来ない・・・としみじみ思ったりする。
オタクの道は、いばら道なのだな。でも、そのいばら道を歩き続けて「聖地」に辿り着いた者にしか分からない「何か」がそこにはあるのだろうな。・・・羨ましいような、羨ましくないような、変な気分ですね。
そういえば
上と直接関係ない話なのだけど、そういや既に「〜信者」とか「聖地巡礼」なんて言ったりしますね。
言葉の上の遊びだと思っていたけど、言っている当人達の中には本気の人もいるのかも知れないなあ・・・。こうした言葉を敢えて選ぶオタクの信心を踏み荒らさないように、今後は少し注意して道を歩く事にしようかな・・・とか思った冬の朝でした。
余談
またオタクに関するエントリを書いちゃった・・・。
私ゃなんでオタクが気になるのかなあ? 自分もオタクの一人だからかなあ? そして彼らの生き様が羨ましいのかなあ? 良く分かんないけどなんだかんだ言ってオタクという人種が好きなのだろうなあ・・・多分。