「カワイイ」と「キモイ」と思考停止の必要性について考える
この二つの言葉は
全く真逆と言って良い使われ方をしている訳ですが、個人的にはその言葉の必要とされる状況にプラスとマイナスの違いは有りこそすれ、脳内では全く同じ必要性から使われているのじゃないかと最近思っています。
タイトルにもありますが、それはすなわち思考停止です。
例えば
女性のショッピングに付き合ってみると「カワイイ」という言葉が殆ど万能語として使われているのが分かります。
ウチの奥さんも*1アレがカワイイ、これもカワイイと連発します。最近では車のデュアリス*2のCMで、
「出荷前のデュアリスが並んでいる姿がカワイイ!」
なんて言っていました。で、その次のCMで流れた子犬の姿にも同じように「カワイイ」を使う訳です。流石にもうこれは訳が分からんという事で私はしばしば、
「そのカワイイというのは一体何なんだ。何がどうカワイイんだ?」
と聞いたりします。で、その結果返ってくる返事は
「うう〜?」
とかだったりします。つまり本人にもよく分かっていないし、カワイイと感じたその理由なんて分析した事なんて無いという事ですね*3。
まあそんなこんなで一度買い物に行く時に「カワイイという言葉の使用禁止令」を発動させたら・・・いやはやビックリですよ。奥さんは全くという程喋れなくなりまして、「うー」とか「むー」とかしか言えなくなりました。
多分若い女の子が使う「カワイイ」も同じなんでしょうね。
とりあえず「カワイイ」と言っておけば「そう感じた理由については曖昧だけど肯定的な意思表明」を表現するので便利なのでしょうねえ。渋谷辺りで調査すれば一日の「カワイイ」という言葉の使用量の多さにきっとビックリするんじゃないかと思ってます。
話変わりまして
同じ様に「キモイ」もそんな使われ方ですよね。
言っている本人も具体的に何がキモイのかを説明できる事なんてまれで、とりあえず「キモイ」と言っておけば仲間同士の連携が取れるという感じじゃないでしょうか。
対象の事を本当にキモイと思っている必要は無くて、とりあえず「そう感じた理由に付いては曖昧だけど否定的な意思表明」をするのに便利です。似たような言葉には「うざい」とか「空気嫁」なんてのも入りますかね。
「空気嫁」なんて最早思考停止の究極とも言える言葉で、自分の意思すらそこにはなくて「とりあえずそこに置いておく」という感じで使われる言葉ですね。自分の意思表示すら避けて責任をその場の全員に分散してしまう事でものすご〜く適当な気分で発言できます。便利ですな。
でも
そういう言葉を使う事を私自身は悪い事だと思っているのか? というとそうでもなくてですね・・・だって私も使いますし。
私は悪いとか思う以前にこうした思考停止ワードが頻繁に出現するのには何か別の背景が有るんじゃないかと思ってしまいます。
というか余程のヒマ人でも無い限りこうした言葉を使わざるを得ない社会になりつつ有るのではないかという推測ですね。
はてなの
人気エントリーなんかもそうですが、毎日のように入れ替わります。
私も使いますが「これは便利」とか「あとで読む」とか*4タグとかがつきまくっているエントリーが現れては消え現れては消え・・・はっきり言って追いかけるだけでも大変です。全部に目を通して、それらの一つ一つについてまともな思考や調査や分析を巡らせるとなったらそれだけで半日位は簡単にかかりそうです。
当然ですが
はてなの人気エントリーなんてのも、広大なネットのほんの一部に過ぎないのは皆さんご存知の通りです。
さらにそうしたネット上の情報に加え、今まで通りに新聞も来れば、テレビもやっているしラジオだってまだまだ元気だし、週刊誌も出れば、携帯に電話も入るし、メールもじゃんじゃかやって来るし、街を歩けばイヤでも目に入ってくる大量の看板、電車の中のつり革広告、有線から流れる音楽・・・。
そうした既存のメディアに加え、当たり前のように人付き合いから発信して受信する情報も山ほどあります。情報は増える一方ですね・・・。
現在は、異常なまでの情報過多時代と言って良く、その情報量は普通の人間には処理しきれなくなりつつあるのではないでしょうか。人間の性能は昔と大きく変わらないのに情報だけが押し寄せてくる状況です。
私個人の
イメージとしては、
回線は光、でもパソコンはメモリ64のPen3状態のまま。
という感じでしょうか。
そんな状況で全て情報に対してまともに対処しようとしたら人間でも確実にブルースクリーンになれます。精神を病んで入院です。
そうした人間ハングアップを避けるためには「カワイイ」「キモイ」「空気嫁」「死ねばいいのに」などなど・・・「オタク」なんて言葉もそうですかね・・・「レッテル貼り」をする必要が増えてきたという事ではないかと。
この「レッテル貼り」という精神的作業を異様なまでに憎む人がいますが、気持も分かるがまあちょっと待てと思います。好きでやっているというよりは、とりあえずレッテルを貼って適当に保存という作業をせざるを得ないのでは無いかと思います。
例えばですが
Core 2 Duoにメモリ2GB積んでる人は確かにレッテル貼りしなくてもハングアップしないかもしれない。いや、Pen3にメモリ64でもWordだけ開けば済む暮らしなら平気かも知れません。
でも私ゃPen3のメモリ64で、Wordも使えばExcelもPowerPointも平行して使う、そうなるとファイル一個開くだけで時間がかかるんだよとなりますわな。
そもそも電源入れてから煙草で一服し終わった辺りでやっとログオン画面がでるような脳みそで生きてるんだということになれば、まともに生きるためには常駐プログラムの5つや6つは削らないとイカンと。つまりそういう訳です。
人間の処理能力は上がらないのに流し込まれる情報量だけ増え続けている訳ですから、これはもうある程度は仕方のない事ではないかと思ったりします。
- 何かがある。「カワイイ」と言って思考停止。節約されたCPU時間とメモリを別のものに活用。
- 何かがある。「キモイ」と言って思考停止。節約されたCPU時間とメモリを別のものに活用。
- 何かが起こっている。「空気嫁」と言って思考停止。節約されたCPU時間とメモリを別のものに活用。
- 変な人がいる。「オタク」と言って思考停止。節約されたCPU時間とメモリを別のものに活用。
こんな感じですかね。
こうした
現在の状況(自分も含め)を憂うべきなのか、はたまた進化したと思うべきなのか? 私には未だに決着のつかない問題ですが、皆さんはどう思います?