ブラック・ラグーン(6)(7)(8)(9)

ブラック・ラグーン (6) (サンデーGXコミックス)

ブラック・ラグーン (6) (サンデーGXコミックス)

ブラック・ラグーン (7) (サンデーGXコミックス)

ブラック・ラグーン (7) (サンデーGXコミックス)

ブラック・ラグーン (8) (サンデーGXコミックス)

ブラック・ラグーン (8) (サンデーGXコミックス)

BLACK LAGOON 9 (サンデーGXコミックス)

BLACK LAGOON 9 (サンデーGXコミックス)

「『過剰殺人?』
お前が酒場でこさえた死体は何体だ?
それに今、あたしゃ銃を向けてねえ。そいつも正当防衛か?」
「あたしは違う。
誰が面白半分に人を撃ったりするもんか。
……あんたは、
ジェフリー・マーダーと同じ種類の人間だ」
「ダーマー、だ。
あたしに金玉コレクションの趣味はねえし、お前は質問に答えてねえ。
何が違う?
殺しは究極の理不尽だ。
理由があろうがなかろうが、な」

価値観の異なる人間同時の対比と断絶が露骨にまで強調されて描かれたシリーズとなりました。ブラック・ラグーンの最新刊をもって、南米から訪れた猟犬・ロベルタによる復讐劇は幕を閉じます。雑誌連載時に掲載されたものに20ページ以上の加筆がなされての一冊となっています。加筆分も含めてとにかく圧倒されるというか・・・物語の落としどころのやりきれなさに胸がいっぱいになりました。

対比される人物達

このロベルタ編では普通に読み進めていけば、登場人物達が対を成すように描かれているのが分かります。

作中でバラライカが嘆くように、彼ら南米組とロアナプラ組の決定的な違いとは何なのだろう? という事をしばらく考えていたのですが、結局のところ一つの言葉に辿り着きました。
それは「『持てる者』と『持たざる者』の違い」です。特にレヴィやバラライカに関してはその辺りが顕著に表れているように思います。

  • 何もかもが真っ黒に染まっている世界を渡り歩いて、寄る辺なき屍『持たざる者』レヴィ
  • ガルシアという魂を預けるに値する主を持って生きている『持てる者』ファビオラ

という対比と、

  • 国に捨てられ何者にもなれずただ闘争だけを求める気の触れた狼のような『持たざる者』バラライカ
  • 国に仕え国の威信と名誉と誇りを背負ったままの『持てる者』キャクストン

という組み合わせです。
ここで言う『持てる者』とは、帰るべき場所を持つものであり、『持たざる者』は帰るべき場所を見失い生ける死人となって地獄を彷徨うものです。その差は——バラライカが作中で問いかけるように、一体何が生み出したのでしょうか? それは・・・分かりません。悲劇、喜劇、いやそのどちらでもなく「クソ食らえ」の一言で終わってしまう何かが、彼らを決定的に違う存在へ変えてしまったのでしょう。
・・・いずれにせよ、同じ所から始まったはずの彼らはそれぞれ別の存在としてロアナプラに立つことになりました。

そしてロックとガルシアも同じように対比される存在です。が・・・この二人は少し捻れた形で表現されているように思いました。

  • 組織に捨てられた事を切っ掛けに帰る場所を見失い、同時に刺激を求めてロアナプラに飛び込んだ『持たざる者』ロック
  • 日の当たる場所へロベルタを連れ返すためにロアナプラに潜り込み、そしていつか出て行くことを目的にする『持てる者』ガルシア

ガルシアには父親から受け継いだ魂とも言うべき帰る場所を自らの中に見いだしていますが、ロックにはそれがありません。ここにも『持てる者』と『持たざる者』の対比があります。・・・しかし、ここに一つのねじれがあることで事態は複雑さを増すのです。

それは、ロックが半ば自ら望んでロアナプラという闇に足を踏み入れているという点です。
だから彼は「夕闇に立っている」と表現される。ロアナプラの住人から見れば「善人」に、それ以外の人間から見れば「悪党」に見えるという・・・まるでどっちつかずのコウモリのように他者の目に彼は映る。ロックはロアナプラの他の住人と異なり『持てる者』になることが出来るのですが、同時に自ら望んでそれを『捨て去った者』なのです・・・。
そして、それこそがロックをロアナプラで奇妙な特異点にしています。

夕闇に佇む者

それが今回のロベルタ編のラストで端的に表れます。
ロベルタ編の最後でロックはファビオラによって冷や水をかけられるような展開となるのですが、それは彼がロアナプラの特異点であること如実に表しています。ロック以外の他の誰でもファビオラをここまで激昂させることは出来なかったでしょう。例えそれが子供の八つ当たりじみた怒りであったとしても。
何故ファビオラは怒り狂ったのか——それはロックだけが「悪党ではなかった」からです。では、「悪党ではない」ロックとは、一体何者だったのか?
例えばガルシアは、ロベルタの過去と現在を巻き込み、彼の父を奪った「死の舞踏」になど参加してやるものかと口にしますが、彼もまた「死の舞踏」を踊る者達の力を借りて自らの目的のために死をばらまく悪党になりました。
国の名誉と正義の道を歩むために死を積み重ねる他なかったキャクストンもまた正義と名誉の皮を被った一種の悪党でしょう。
もちろんロアナプラに死と破壊と混乱をもたらしたロベルタは言うに及びません。
ガルシアの片腕となって同じように死と破壊を行ったファビオラもまた同じ穴の狢です。
この出来事において、「悪党」以外は存在し得ないはずでした。だからこそ、ガルシアはこう口にします。

「……ぼくらは悪くない、
——誰もが皆、そう思ってる。
だから、
殺し合いは終わらない」

そして米兵もこのように呟きます。

「……坊主
おじさんにはわからん。
最初に悪かったのは、
一番悪かったのは、
誰なんだ?」

悪くないと思いつつ、自分の罪を自覚している。そしてこの出来事の当事者達は自分の罪深さにおののいている、それだけの出来事でした。

しかし、ロックだけはこの瞬間に「悪党ではなかった」。
経過と動機はどうあれ、ロックがガルシア達を生きてロアナプラから帰還させるために動き続けたのは事実です。「自己満足」によって塗り固められてはいましたが、しかし、それは決して「悪党」の発想ではありません。
ロックは作中、今回の出来事に相対することについて、以下のような言葉を口にします。

「……——そうだな、
『面白そうだ』
——そう思ったのさ」

「——だが……
本当に難しいのは、ロベルタを捕らえることじゃない。
彼女が葬ろうとしている者、彼女を葬ろうとしている者、そして——彼女を利用しようとしている者、
それを解きほぐしてそれぞれの場所へ収めるんだ。
——それは、賭だ。
……でもそこが——
この案件の、
一番面白いところさ」

「じゃあ——
こう言い換えよう。
最後の最後で大騒動の一番面白い出来事を——
俺たちだけが楽しめるんだぜ、
ダッチ」

「運以外のあらゆることを塗りつぶすのは、定石だ。
そうして隙間を埋めていって、
運だけが純粋に残った時——
最高の賭になるのさ」

面白い最高の賭——ロックにとって今回の出来事はそのようなものでした。
ダッチや張に逆らって「分水嶺」を越えて進み続け自らの命を危険に晒し、さらにはレヴィを初めとするラグーン商会の面々のみならず、ガルシアたちの命、米兵の命までも賭のチップにする——ロベルタを無事に国へと帰すための方策を彼はこのように表現しました。
それは危険で刺激的なものであっても、あくまで彼にとっては人助けの延長にあり、悪意からのものではないのです。悪意どころか、ロックの心は恐らく「善意」で占められていたでしょう。
この危険な事態を楽しみつつ、「善意」で自分を塗り固め、おそらく自分すら騙しながらロックは目的に向かって邁進するのです。そこには自らを「悪党なのではないか?」などと疑う姿勢はありません。つまり彼は終始、本人にとっても他者にとっても「悪党」ではないのです。
彼は自分を疑わない。ロアナプラの住人が自分を疑わないのと同じように、彼もまた疑わないのです。しかし全く同じという訳ではありません。ロアナプラの住人は自分が「悪党」であることを疑わないのですが、ロックは自分が「善意の人」であることを疑わないのです

そして、この「善意の人であることを疑わない」事こそが一番恐ろしく、ロックをまるで「悪党」以上の「何者か」にしているのだと思うのです。善意を動機に、自己満足を燃料として、人を見積もり、人を動かし、人を操り、人を促し、人を唆し——そして死体の山と見事な結果を積み上げたロックの姿は、ある意味で「死人」であるレヴィよりも恐ろしいのではないでしょうか。
物語の終盤、自分の思惑どおりに事態が推移していくのを知ったロックがその経過に笑顔を浮かべた時——そこにはまるで「死神」と「悪魔」の姿が重なって見えるようです。それこそがロックを「最悪のくそ野郎」だと言わせしめるものであるものなのでしょう
・・・おそらく「悪意」や「真の邪悪」というものは、「善意」や「真なる献身」の姿をとって人々の前に現れるに違いありません。ラストシーン直前までのロックはまさしく「それ」の体現者でした。

ラブレス家の罪

しかし、それはファビオラが撃った一発によって打ち砕かれます。ファビオラの一撃は——私には、悪魔払いの一撃のように思えました。
ファビオラがロックに対して行った仕打ちは身勝手極まりないものではありましたが、破綻していたロックと比べて遥かに人間らしさを感じるものでもありました。自身が生者であることを証明するかのように、ファビオラは人としては正当であるとも言える怒りに駆られその一撃を見舞うのです。
ただ、ガルシア達はエクソシストの様に清い存在ではありません。彼らは自身の望みを叶えるために自らの手で悪魔を呼び出し、生け贄を捧げ契約を結び、その力を利用した者達でもあるからです。そして彼らは——目的を遂げるやいなや、自らの使役した悪魔へと破魔の一撃を見舞い、その血塗られた契約を一方的に打ちきって、死人の住まう土地を去るのです。
そんな彼らが——呪われないはずがありません。

「ひとでなしの、
クソ野郎だ」

人間をただの「駒」扱いした三合会のトップ・張に対してこう言い放ったのはロックでしたが、その言葉は巡り巡って最後にはロックの元に返ってきました。そしてやはりガルシアたちのところへも形を変えて返って行きます。
——彼らに返ってきたのは・・・自らの積み重ねた消すことの出来ない罪、そして悪魔と死人の手を借りて手を汚したという事実です。「死の舞踏」の連鎖はガルシアを最後に止まるのかも知れませんし、止まらないかも知れません。・・・彼らの先行きを楽観視することは、残念ながら出来ません。彼らは自らの欲望のために余りにも人を害しすぎました。どんなに綺麗事を積み重ねてもその事実が消えることはありません。

「暴力の中では痛みを感じることのなかったその傷が、
穏やかな平和の中でどのように——
膿んで爛れていくかを、
——若い君は気付けなかった」

ガルシアがロベルタの傷を背負うというのはつまり、膿み爛れていく傷を堪え忍び、罪を血以外のもので贖うことです。それは「聖者の列に加わらん」とする彼らにとっては重すぎる十字架となるはずです。しかし彼らはそれを背負わなければなりません。そしてそれはこれから先長く重苦しい「贖罪の生」を生き続けることに他ならないでしょう・・・。

空砲弾と銀の弾丸

・・・後には悪魔払いの一撃によって目を覚ましたロックだけが残されました。憑きものの落ちたロックは初めて自分に対して疑いの視線を向け始めます。それを成長というのか退行というのか——現時点では誰にも分かりませんが・・・。
ロックはガルシアやファビオラ達の言う通り、ロアナプラという街にいつの間にか染まりきっていたのでしょうか?
——私はそうは思いません。
レヴィは彼を「銀の弾丸」と表現して畏れ、ファビオラは彼を「空砲弾」と言って蔑みます。私は、恐らくこの言葉のどちらもがロックを端的に表している言葉なのではないかと思います。どちらも正しくない、しかしどちらも間違ってはいない——それは、ロックが「夕闇に立っている」からこそ見る者の立ち位置によって姿が変わる、彼の今の在り方を表したものではないかと思うのです。
奇しくも、ファビオラは「空砲弾」=「こけ脅しの魔法」「紛い物の真鍮」と蔑んだ一撃で、ロック自身の憑きものを落とすのです。憑きもの落とし——それは「銀の弾丸」にしか成すことの出来ない技ではないでしょうか
ロックは確かに「空砲弾」なのかも知れません。しかし、その弾にこめられた魔法は間違いなくロアナプラの闇を撃ち抜き、ガルシア達を陽の光の下へと生還させた力となったのです。それはロックが「空砲弾」であると同時に「銀の弾丸」でもあった事を示すのではないでしょうか・・・私には、そう思えてなりません。

再び、黄昏の中へ

ロックはここに到るまでに幾つもの後悔を抱えています。
双子の時にはまるで力が及ばず見守ることしか出来ず、日本では差し伸べた手を払いのけられた彼は、遂に自らの力をもって救いたいと思った人を救い出すことに成功しました・・・しかし、それは皮肉にも救い出した相手から罵られ蔑まれる道でした。ロックはこれからどこへ向かっていくのでしょうか?
ラストシーン、彼を迎えるのはラグーン商会の面々ではなく張でした。それはロックの行く末を暗示しているようにも思えます。

「あの子になじられたよ、
俺は人の命をチップに乗せる悪党だと。
張さん、
俺は悪党かな?」
「……動機はどうあれ、
結末は一つだ。
お前は真実、脳みそが痺れるようなギャンブルをやりたかったのかもしれないし——
またはあの子たちを最悪の状況から救ってやりたかったのかもしれない。
あるいは、その両方かも」

生者は黄泉路を抜け出して陽の当たる世界へと還り、闇夜を血と暴力で彩る死人たちの舞踏も終わらない。そしてその狭間でロックが歩み続けるであろう夕闇の道はまだまだ続いていくのです・・・。